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更科

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鍬ヶ崎上町に今も残る遊郭跡

更科は明治期から昭和初期まで隆盛を極めた鍬ヶ崎の遊郭だ。その規模は鍬ヶ崎の遊郭の中において有数の規模を誇り花街鍬ヶ崎の顔とも言える建物であった。
更科についての正確な発生は不明だが、火災、立ち退き等で何度か移転を繰り返し現在鍬ヶ崎上町にその姿を残している。手元にある昭和6年の当時の地図を見ると更科は現在は撤去された田老鉱山鉱石集積所のある切り通しの坂を下った海側に、同じく遊郭であった大正楼、豊岡楼を囲むようにL字型の敷地を持っていたことがわかる。その後田老鉱山創業に伴い臨港通りへ抜ける道を挟んで反対側へ立ち退き移転している。更科は現在一般の民家として利用されており通常は外観のみに遊郭であった面影を見ることはできない。
鍬ヶ崎に残された遊郭の建築様式を残す当時の建物はかなり少なく、廻し部屋などを維持したまま現在もその姿を残しているのは更科だけと言ってもよいだろう。

二階には宴会場と廻し部屋が残されている

更科の入口は上町の通りに面しており、入口に向かって右側が遊女たちが張見世をした部屋で昔は格子窓になっていた。入口を潜ると右に前述の顔見せ部屋があり左に帳場がある。天井は通常の家屋の倍ほどの高さで玄関と同じ間口で廊下が続く。二階へ昇る階段は二つあり、来店する客と帰る客が顔を合わせないようにする工夫がされている。
二階の通り沿いには宴会場に使っていた通し部屋があり二階廊下を挟んで約15の廻し部屋がある。廻し部屋は遊女が客を迎え入れる部屋で広さは約六畳ほどで半軒の廊下で向かい合うように並んでいる。更科は戦後まで遊郭として営業を続けたが、昭和30年代前半にのれんを降ろした。

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