鍬ヶ崎哀歌VOL1
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春千代の半玉時代
かつて港町鍬ヶ崎には江戸時代から引き継いだ花街としての文化があった。それは明治時代に急成長し、大正時代に全盛期を迎えた。
現在の上町界隈には料理屋が軒を並べ、着飾った半玉や芸者たちが闊歩していたのである。宴は空が白むまで続き賑やかな三味線や太鼓の音が通りに響いていた。
昭和―。そんな花街鍬ヶ崎にも暗い戦争の時代が訪れる。宴会は出征兵士を送る送別会が多くなる。それでも芸者たちは最後の最後まで唄い踊った。そんな激動の昭和初期を鍬ヶ崎を生きた芸者・春千代のアルバムから当時の鍬ヶ崎を振り返ってみよう。
春千代は田老町に生まれた。昭和八年小学三年生の時に、田老町で三陸大津波に遭遇、その恐怖と不安から鍬ヶ崎上町で遊郭と料理屋を経営していた親戚の元へとひきとられたという。
新天地で彼女の目に写ったのは当時の華やかな花街鍬ヶ崎であった。それは美しい着物と髪飾りで親戚の料理屋を訪れる半玉たちの姿であった。
小学五年のある日、親代わりだった親戚の親に呼ばれ『お前は勉強がしたいか、芸妓になりたいか』と問われた。彼女は家の子供たちも芸妓になるのに自分だけ勉強すると言うわけにもいかず、その日、芸妓・春千代になることを決心した。少女だった彼女は半玉のように奇麗な着物を着たり『がっぱ』という半玉が履く下駄ををはいてみたかったというのが本心だったのかもしれないと当時の心境を振り返る。
当時、芸妓を目指し半玉として修行するには通常6歳頃というのが普通であり、春千代の芸の修行は当時とすれば遅めであったという。
芸妓の修行は礼儀作法からはじまる。畳の歩き方、歩数、戸の開け閉め、挨拶、言葉づかいなど、昨日まで普通に暮らしていた少女には辛い修行であり時には先輩芸者たちから棒で叩かれることもあった。唄や三味線、踊りの稽古は古参の先輩芸者たちから教えられることもあったが、ほとんどが盛岡などから専門の講師を招き教わったという。しかし、半玉として一本芸者と座敷に上がる時は、人が唄う歌詞を覚え三味線は弾き手の指を見て覚えるが普通だった。
鍬ヶ崎大漁踊り
現在でも夏や秋祭りなどで「宮古大漁踊り」「沖あげ」として唄われる鍬ヶ崎大漁踊りは元々建網で働く漁師たちの労働歌であったが、明治の頃若干のアレンジで鍬ヶ崎のお座敷唄に改良されたものだ。盛り込まれたおめでたい歌詞と、櫂と振り樽を使った振り付け、独特の衣装は港町鍬ヶ崎を象徴するもので、鍬ヶ崎を訪れる船主や買い人たちの大漁祈願の祝い唄としてお座敷で人気を博したという。
披露するのは大宴会や芸者の人数が多い時などで、漁業関係者の宴会では決まってこの踊りを踊った。内訳は三味線太鼓の演奏とお囃子に3名、櫂を持った踊り子に4~5名、中心の船頭役に1名というのが一般的な大漁踊りのメンバーだ。
大漁踊りの声がかかると芸妓たちは別室で着替え、着物を捲りあげ、腰みのに艪という出で立ちで座敷に入ってくる。時には踊りながら窓から乱入するなどということもあり、その勇壮さとお色気で宴は大いに盛り上がったという。
後にこのユニークな踊りは鍬ヶ崎芸妓の十八番となり、名物として絵はがきに印刷されたり、戦時中は慰問の出し物として、終戦後は浄土ヶ浜朝日会館で進駐軍への芸として披露されたりした。
昭和6年宮古点描
地図は昭和初期に描かれた鍬ヶ崎全地区の地図から花街として賑わっていた上町付近を当時の地図を参考にして新たに描いたものだ。左の岩の部分は現在の魚協ビルがある高台で当時は八角形の建物として有名な宮古測候所があった。地図上一番下に記された道路は現在の臨港通りにつながる道で現在旧宮古魚市場あたりは当時は海でありその道なりに何本かの桟橋がかけてあった。
海岸道路に並行する道路が現在の鍬ヶ崎上町付近であり、当時この通りが鍬ヶ崎一番のメイン通りであった。また現在の常安寺分院から上町へ通じる小道にも多くの料理屋が軒を並べていた。当時の最大規模を誇った三階建ての料理屋「旭屋」もこの通りにあった(元久保医院跡付近)資料によると昭和6年4月6日に鍬ヶ崎上町では火災が発生し、全半焼十八戸とあるから地図に記載された家屋の何軒かは被害を受けているだろう。実際に年代が若干違う地図を見ると料理屋の名前が違っている場所もあり、今も昔も飲食店の隆盛と衰退が繰り返されていたと思われる。
昭和6年は9月18日の関東軍による鉄路爆破事件から満洲事変が勃発するなど、国をあげて軍事色が強くなり10月には軍部内閣樹立のクーデターが起こった。男たちには召集令状が届き、鍬ヶ崎では出征兵士たちを送る同級会、送別会が頻繁に行われたという。この頃山田線は盛岡から平津戸までしか開通していなかった。
定期航路 三陸汽船(株)
明治30年代に発動機船が普及し、以前まで陸路に頼っていた交通体系は革命的進歩を遂げた。その約10年後の明治41年(1908)に宮古の交通を急激に進歩させたのが「三陸汽船株式会社」であった。この会社はそれまで東京湾汽船株式会社に独占されていた岩手県沿岸の航路を、釜石の横山久次郎という人が沿岸地域に呼びかけ、地元資本による海路を拓こうと発足したもので、宮古~宮城県塩釜航路を蒸気船で就航したのがはじまりだ。鍬ヶ崎の桟橋からは黄金丸、新東北丸、永徳丸などが就航、のち各方面へ定期航路が開かれ宮古~山田~釜石~大船渡~塩釜が一日一便、東京へ向かう射水丸、函館へ向かう永隆丸が月二便就航した。当時は盛岡への陸路は午前4 時に出発する盛宮馬車しかなく、三陸汽船は鍬ヶ崎を玄関口として近代宮古における外部交流の先導役を果したのである。
花街言葉
花街には花街だけで使われる特殊な言葉があった。ここではその一部を紹介しよう。
- 【半玉】はんぎょく
- 芸妓修行中の娘。華やかな振り袖に簪をさし、髪は「ぐるり」という髪型。半襟は紅白のしぼり。芸も料金も半人前という意味がある。
- 【一本】いっぽん
- 修行を終えて一人前になった芸妓。止め袖の地味な着物に高嶋田、銀杏返しなどの髪型。半襟は白。「褄(つま)」は左手で取る。
- 【おぢゃっぴき】
- 襟化粧をしてお座敷のお呼びがかかるのを待っているのにその日声が掛からず仕事がないこと。
- 【おもらい】
- 他のお座敷へ出ている芸妓が馴染みの客の宴会に顔を出すこと。一通り挨拶とお酌をしてまたお座敷へ戻る。
- 【のぼり、くだり】
- 箱番から声がかかり用意をして料理屋の帳場に伝票を預けることと、お座敷が終わり伝票を受け取ること。
半玉・春千代の思い出の品、がっぱのこと
春千代が半玉としてはじめてお座敷にあがった日は今となってはいつであったのかわからない。しかし、ある日親代わりをしていた親戚の人に連れられて光岸地の栄松屋という下駄屋へ行った。彼女はそこでい草敷の「がっぱ」を買ってもらったのであった。がっぱは「ぽっくり」とも呼ばれる女用下駄だが、通常の町娘たちが履くそれとは高さも仕立ても違っている。
がっぱは中が中空になっており通常の下駄のように歯はない。その代わり内部に鈴がつけてあり、歩く度にシャラシャラと鈴の音が響くまさに半玉用に作られた下駄だ。
春千代はこのがっぱがあまりにも愛しかったため、あまり履かずに大切にした。そのままがっぱを履く年頃を過ぎ、一本立ちした後も大切に大切に保管してきた。今春千代の手の中にあるがっぱは半玉としての少女時代を物語る大切な思い出も品なのである。
岩泉岩手炭坑慰問の思い出を語る
半玉から一本立ちして間もない昭和10年頃春千代ら数名に旅回り慰問の要請がきた。行き先は当時石炭の採掘に沸いていた岩泉町大川の岩手炭坑であった。春千代らは早朝鍬ヶ崎からトラックの荷台に乗り茂市経由で岩泉入りをした。その道のりは、後に国道340号線となるルートだが、道はでこぼこでひどく揺れたので芸者たちは車に酔ってしまい大変な道程だったという。
大川には小屋がかけられお客は鍬ヶ崎芸妓の到着を今か今かと待っていた。しかし、到着したからといってすぐに舞台をやれるわけでもなかった。通常のお芝居の出し物には化粧や髪、衣装などを専門に受け持つ係がいるのだが、春千代一行らは全てを自分たちで用意するのであった。
芸者としてお座敷に出る着物は縫い子に頼んで仕立てた高級品だったが、舞台衣装などはすべてが手作りだった。加えて出先での慰問などは髪も化粧もすべて自分たちでやるのが普通だった。
岩手大川での出し物は多々あったが写真に残っている舞台は「乗り合い船」という演目で、川の渡し船に偶然乗り合わせた人々の生業や人生を長唄で表現したものだ。数個の電灯が灯るだけの舞台でやんやの喝采をもらった一行は夕方大川を出て、夜遅くに鍬ヶ崎へと戻った。
料理屋と箱番
大正10年、鍬ヶ崎花柳会は全盛期を迎える。この時芸妓(芸者)40人、半玉12人、娼婦40人であった。これらの女たちを管理していたのが箱番(検番)と呼ばれる機関であった。特に一晩に何件ものお座敷を回る芸妓は、どこのお座敷へ何時までいるのかという管理が必要だった。鍬ヶ崎の料理屋では客に鍬ヶ崎芸妓全員の名前が印刷された紙を提示し、客の指名を聞いて箱番へ知らせるのが普通だった。箱番には芸妓全員の木札があり呼ばれた芸妓の札を裏返しにして稼働を管理するのである。また、箱番には芸妓の三味線など鳴り物(楽器)が保管されており、芸妓たちは箱番でそれを受取りお座敷へ向かった。この三味線を入れる箱を管理したことから「箱番」の名がついたと言われる。
そして太平洋戦争へ
世間に戦時色が色濃く漂ってくると鍬ヶ崎での宴会のほとんどが出征兵士を送る壮行会や、もう帰ってこれないかも知れないからと同級生らが行うクラス会になった。また、芸者を自宅に呼んでの立ち振舞いもあり、春千代らはお呼びがかかると宮古や山口の家へお座敷としてあがった。
「この度はおめでとうございます…」と玄関で告げると「最後になるかもしれないからせめて賑やかに送り出して欲しい…」と残される家の人に言われたという。宴会が終わる頃に写真屋を呼んで記念写真やスナップ写真を撮ったものの中にはそのまま戦死して戻ってこなかった人も大勢いるという。
戦時色が強くなってくると髪を結うのは贅沢だと言われ芸妓たちは日本髪を結わなくなる。そして芸者をあげて遊ぶことは贅沢だからと鍬ヶ崎への遊興もぐんと減った。そして三味線や太鼓などの鳴り物が禁止され、灯火管制があり、最後には酒すらなくなった。その頃は芸妓たちも慣れないミシンを踏んで宮古授産場で軍服を作った。しかし、それも布がなくなり長くは続かず敗戦を迎える。
消えゆく鍬ヶ崎花柳界
昭和20年8月―。敗戦と同時に混乱の時代が到来した。芸妓たちは浄土ヶ浜旭会館、宮古海員学校に進駐したGHQの前で鍬ヶ崎大漁踊りを踊ったりもした。鍬ヶ崎花柳界は消滅していなかったのである。しかし、実際には戦後の教育制度の改革等により細々と営業していた料理屋も消え、芸者もその仕事の変化を余儀なくされた。
春千代は昭和23年に結婚、それを機に少女時代、青春時代を芸一筋に生きた芸妓人生にピリオドを打った。時に熊野神社の曳船が10年振りに復活し、秋にはアイオン台風が宮古を襲った年であった。