鍬ヶ崎花柳界
目次 |
港が生んだ鍬ヶ崎遊郭文化
江戸から明治初期まで盛岡-宮古間の閉伊街道は城下へ海産物を運んだ宮古の五十集でさえ2泊3日を要する難所続きの陸路だった。明治中期になり街道は少しずつ整備され、乗合馬車による定期交通手段や、大正初期には、先代・菊池長右衛門氏ら有志によって設立された盛宮自動車が、乗合自動車(小型のバス)による交通機関で盛岡-宮古を1日で結んだが、北上高地を縫うように流れる閉伊川に沿った閉伊街道は自然災害に弱く道幅も狭い危険な道であった。後、昭和9年、山田線が開通し閉伊街道は陸路から鉄路となり、陸路は戦後国道106号線として整備されてゆくことになるが、鉄路が開通する昭和9年まで、宮古へ入る交通手段は三陸定期汽船、通称三陸定期船による海路がほとんどを占めた。
海路による交通手段は明治から大正期に発達した発動機客船による大型大量移動だ。大正13年に合併した宮古町と鍬ヶ崎町は鍬ヶ崎の港を宮古港として改め、宮古における玄関口として位置づけた。三陸定期船は地元資本を元に明治44年に開設した塩釜ー宮古の定期航路で、不定期で釧路ー宮古、東京ー宮古などの航路があり、宮古からは北の田老町、田野畑村、南の山田町へ向かうローカル航路があった。船は経済物流と人、そして文化を運び、多くの旅人や商人が鍬ヶ崎に降り立った。
そうしたなかで江戸末期から発生した鍬ヶ崎の花街も活気づいてくる。古くから上町に軒を並べていた遊郭を中心とした花街では、この頃に目明かしや旧箱番が管理運営する旧体制から、遊郭、料理屋、料亭を一括して管理する鍬ヶ崎遊興組合という組織へと変わる。こうして幾人もの遊女を囲った純粋な廓と、芸者を呼んで宴会をする料理屋、置屋などを併設する鍬ヶ崎特有の遊郭文化が形成されてゆく。
芸者たちの写真帳
明治・大正、昭和初期から戦前・戦後、そして風俗営業法が大きく変わった昭和33年頃まで鍬ヶ崎上町は遊郭や料理屋が軒を並べた遊里であった。敗戦と復興そして時代の流れが大きく変化していく中、幾人もの鍬ヶ崎の芸者たちが三味線を手放し芸事に終止符を打った。しかし彼女らが残した写真帳の中には華やかかりし時代の鍬ヶ崎が写っていた。
月刊みやこわが町では、そんな芸者たちが残した写真帳や絵はがきをもとに古き良き時代の鍬ヶ崎を懐古する「鍬ヶ崎大正物語」VOL1,2,3、「鍬ヶ崎哀歌」VOL1.2を企画特集し好評を得てきた。同企画は1986年から2001年にわたり、5回のシリーズで大正、昭和初期の鍬ヶ崎花柳界を特集したもので、1986年から3年間に集中して特集した「鍬ヶ崎大正物語1~3」には、当時の芸者が秘蔵していた貴重な写真、当時の世相や風俗を考察する資料も掲載している。