Miyape ban 01.jpg

鍬ヶ崎大正物語VOL1

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

目次

相馬屋女将・遠藤おまつが生きた時代

相馬屋は明治初期から昭和初期までの鍬ヶ崎花柳界において代表的な料理屋であり、古くは遊郭であったが、大正時代には遊郭をやめ、うなぎの名店「柳川」からタレを受け継ぎうなぎ料理を出す料理屋として続いている。
鍬ヶ崎には江戸末から廓、料理屋が軒を並べたが、貸座敷として料理を出し、芸者を呼んでの大小宴会をする料理屋にも囲いの遊女がおり、遊郭としても機能するという店が多かった。大正、昭和に入り座敷と料理だけを提供する店も出現したが、鍬ヶ崎の料理屋の基本は料亭と遊郭が合わさったものだった。料理屋には囲いの芸妓がおり、芸妓たちは囲われた料理屋の座敷をはじめ、各料理屋の座敷に呼ばれては花代を稼ぐことができた。逆に囲われた遊女たちは料理屋、廓の区別無しに、囲われた店のみでしか営業が許されなかった。
芸妓とは芸を売って客を楽しませる花街の特殊な芸人であり、遊女のように身体は売らないから芸妓と遊女は区別される。芸妓とは今で言う歌手や漫才師などのタレントのようなもので、艶やかな衣装で宴会に華を添えるコンパニオンのようなものだが、一人前なるための道は厳しい修行の積み重ねであった。ほとんどの鍬ヶ崎芸妓たちは近郷近在から4~6歳で料理屋に里子に出され、住み込みで暮らした。経営者である里親は少女たちに芸を仕込むため投資することになるが、遊郭、廓としての面をもつ料理屋に囲われた芸妓たちは遊女と同一視されることが多かった。
相馬屋にも最盛期には大勢の囲の芸妓と遊女がおり、芸妓を交えての宴会が終わってからそのまま登楼する客も多かった。そんな相馬屋に四代目の女将になるべくして、鍬ヶ崎の地に降り立ったのが遠藤おまつであった。
おまつは明治30年12月、青森県三本木に生まれ、明治37年(1904)7歳の時、新地・鍬ヶ崎に転入、相馬屋女将としての人生はここからはじまる。

鍬ヶ崎花柳界が最も輝いていた時代、おまつは二十歳を迎えた

大正5年(1916)、おまつは成人式を迎えた。この頃になると明治から賑やかだった鍬ヶ崎はより一層に華やぎ、鍬ヶ崎花柳界は最盛期を迎える。相馬屋は遊郭をやめ料理屋として鍬ヶ崎一二を争う料亭になる。その設備は当時まだ珍しかったバルコニーをもつ広間に、ビリヤードの台を据え付けるなど当時の流行の最先端をゆく和洋折衷のしゃれた店舗だった。また、鍬ヶ崎上町にあったうなぎ料理の老舗「柳川」閉店に際して、相馬屋、新よし(現宮古)の2店がそのタレの秘伝の秘を受け継いだのもこの頃だ。また、この頃「相馬屋」「玉川」は共同経営で浄土ヶ浜に、夏だけ営業する海水風呂付の料亭「東秀館(のちの開明館)」を開設、客たちは芸妓と連れ添って相馬屋前の桟橋から舟に揺られ、涼みながら浄土ヶ浜での宴を楽しんだ。
大正11(1922)年4月9日、おまつは当時とすれば割と遅めだが26歳で結婚している。鍬ヶ崎はこの世の春を謳歌する人で賑わい、鍬ヶ崎芸妓40名、半玉12名、娼妓40名を数える北東北有数の花街になっていた。また、この年、鍬ヶ崎町、宮古町は両町議会にて両町合併異議なしと、岩手県知事に申請、のち大正13年(1924)両町は合併し、人口16063人の新しい宮古町となった。鍬ヶ崎の港は漁港ばかりでなく、外国からの輸出入を見据えた第二種重要港湾に選定され開発の波が押し寄せていた。
大衆文化も多様化し、人々は寄付を募って「実写会(活動写真)」を開いた。これは今で言う「映画文化」のはしりであり、鍬ヶ崎の有楽座、築地の第一トキワ座などで無声映画の上映興行などが行われた。当時の宮古は人力車15台、客自動車(乗合自動車)1台、電話が宮古町で78台、鍬ヶ崎で20台であった。消費者物価の目安としては、牛肉が5斤で6円、石鹸が18銭、賃金は女性で1日、70銭であった。

芸妓のお座敷を割り振りした箱番

検番とも呼んだ。芸妓たちのお座敷を割り振りする所。古くは鍬ヶ崎では上町の山手にあり、大正の頃「喜津屋」という料理屋になった場所だが、時代により移転しており正確な位置は定かでない。箱番には芸妓の名前を書いた木札があり、稼働中の芸妓の札を裏返しにすることで稼働、非稼働を一覧した。また、箱番には芸者たちが使う鳴り物が置かれており、芸妓たちにお座敷のお呼びがかかると料理屋の若い衆がそれを運んだり、芸妓が鳴り物を受け取りに行ったりしていた。三味線や太鼓などは専用の箱に入れられており、この箱を管理するため「箱番」の名があるとも言われる。後期の鍬ヶ崎では「鍬ヶ崎遊芸組合」という組織が芸妓たちの花代や稼働を管理していたので箱番の役割も果たしていた。

一本芸者と半玉芸妓

一本芸者とは修行を終えて一人通りの芸ができるようになった芸妓のことで、花代である線香一本分という意味。逆に修行中の芸妓は半玉と呼ばれ、半人前とされた。時代とその芸によって半玉から一本立ちする年齢はまちまちだが、明治の頃は20歳過ぎで、大正、昭和になると18歳ぐらいだった。半玉は6歳ぐらいから芸の道に入り師匠について唄、踊り、三味線を習い、お座敷では一本芸者が弾く三味線に合わせて踊ったりした。鍬ヶ崎芸妓の場合一本芸者と半玉は着物と髪飾り、半襟などで区別され、地味な着物で髪飾りもさほどつけないのが一本芸者で、振り袖にきらびやかな髪飾りをつけているのが半玉だ。

花代は俗にせんこう代と呼ばれた

昔、廓では、その行為に費やす時間を計るのに線香を使った。客が待つ部屋へ入ると線香に火をつけてその火が燃えつきるまで客に身体をあずけたのである。廓でのこの習慣が、芸妓を呼んでのお座敷でも受け継がれ、実際に線香に火をつけたりはしないものの、芸妓に支払う花代のことを線香代と呼んだ。また、芸妓として駆け出しの半玉と呼ばれる少女たちの線香代は半額であった。

芸妓ブロマイドで集客する

華やかだった鍬ヶ崎では三陸定期汽船から下りてくる乗船客、鍬ヶ崎を訪れる人々に対して芸妓の積極的な売り込み活動も盛んに行われた。それは売れっ子の芸妓たちを集めた写真が印刷されたブロマイドや、芸妓、半玉たちの艶やかな姿が写された観光用の絵はがきなどで、組み合わせやパターンを変えながら盛んに制作された。また、料理屋では店名を印刷した扇子などを配り宣伝に配慮した。

有楽座は鍬ヶ崎のシンボル

鍬ヶ崎上町にあった演芸などを興行する小屋。場所は現在の旧魚市場から上ノ山寺へ向かう路地にあり、鍬ヶ崎を訪れる芝居、議太夫、浄瑠璃などの旅芸人たちはここで興業を行った。また、定期的に半玉たちのおさらい会や発表会、時代が下ると実写会(活動映画)の興業も盛んに行われた。有楽座から上ノ山へ向かう路地は江戸、明治、大正、昭和初期まで鍬ヶ崎上町のなかで最も華やかなメイン通りであった。(現在のニチボウ)

鍬ヶ崎芸妓番付

江戸末期から存在していた鍬ヶ崎の芸妓であるが、江戸時代の資料に名前が残されている芸妓は極めて少ない。芸妓の名前が記録に残るようになったのは遊芸組合の発行したブロマイド、明治、大正に観光ガイドとして発行された冊子が出まわった明治末頃だ。左の番付表は上段に明治31年の記録に残る芸妓、中段に明治から大正の芸妓、文字の小さい下段の芸妓が昭和初期から戦前までの芸妓の順で組み上げたものだ。同じ名前の重複が若干あるが、一覧してみると名前にパターンがあることが判る。これは、里親になった料理屋にちなんだもので、名前でどこの店の芸妓かわかるようにしたものと考えられる。この番付は各時代により鍬ヶ崎に存在した芸妓の名前を編集部でまとめたもので、実際には番付表の芸妓が一同に稼働していたわけではない。
300px

関連事項

表示
個人用ツール