鍬ヶ崎芸妓
提供:ミヤペディア
鍬ヶ崎芸妓座談会・ありし日の鍬ヶ崎花柳界を偲ぶ
この座談会は大正末期から戦前にかけて鍬ヶ崎上町で活躍した三人の芸者、鶴子さん、万平さん、かるたさんを囲み、当時の鍬ヶ崎花柳界の話を聞くとともに、当時の風俗や芸妓の歳時記を取材したものだ。
- 出席者
- 鶴子姐さん
- 萬平姐さん
- かるた姐さん
- 後藤七朗(郷土史家)
- 横田あきら(編集部)
- 収録年・昭和63年
横田 | 皆さん、お忙しいところ集まっていただきありがとうございます。今回は懐かしい鍬ヶ崎花柳界を思い出そうという趣向ですが、形式などありません。気楽に昔話でもしようという会です。早速ですが、姉さん方が半玉に出られたのはいつ頃でしょうか? | ||
鶴子 | 私は大正7年です。14歳でした。 | ||
万平 | 私は昭和7年でした。13歳でしたね。 | ||
かるた | 私は昭和9年に数え年15歳で半玉に出ましたね。 | ||
横田 | 半玉を終えて一本立ちする年齢は決まっていたのですか? | ||
万平 | 時代によって違ったかも知れませんが、私らの頃は17歳になれば誰でも一本立ちすることになっていましたねぇ。 | 【お線香代】 指定のお座敷に芸妓を呼んで遊興した代金のこと。古くは廓、遊女屋で線香の燃えつきる時間を基準とした時間配分で、その名残がお座敷でも使われたもの 【玉代(ぎょくだい)】 玉とは「芸妓」をさす言葉。玉代は線香代同様、芸妓を呼んでの遊興に使用する金銭のこと。廓では遊女の揚げ代のこと 【芸妓番付】 鍬ヶ崎では各時代により芸妓の格付けをした番付を印刷して各料理屋へ配布していたようだ。年上の一本芸者が格上で、その下に若い一本芸者、半玉の名前が連なっていた 【箱番】 検番とも呼ばれた。各お座敷へ出ている芸妓を割り振りする機関として存在した。古くは芸者をはじめ遊女など、花街でのいざこざや客同士のトラブルまで管理した。一説には芸者たちが使う鳴り物の箱を保管していたから「箱番」という説もある 【相馬屋】 鍬ヶ崎で一、二を競った料理屋。明治以前は遊女もいたが、大正期には貸座敷を持つ料理屋となった。その頃、鰻の名店「柳川」から秘伝を受け継ぎうなぎ料理も出すようになる。戦後規模を縮小しながらも現在も鰻の店として鍬ヶ崎に暖簾をだしている 【旭屋】 相馬屋とともに鍬ヶ崎で一、二を競った料理屋。和洋折衷の三階建ての店舗は鍬ヶ崎で最も広い宴会場をもっていた。前後解体されて久保医院となり、現在は久保歯科となっている 【銀座会館】 昭和9年頃、宮古にあった有名なカフェー。料理屋とは異なり芸妓をお座敷に呼ぶ手間がかからず、店内に多くの女給がおり、当時人気を博した。現在のキャバレーの前身 【大漁踊り】 鍬ヶ崎芸妓の十八番。元々は網場で唄われた漁師唄であったが、明治期鍬ヶ崎の遊芸師匠がアレンジ、お座敷唄として改良。腰に前掛け、櫂を打ち鳴らす踊り手と、桶を持って踊る船頭役で構成される |
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鶴子 | 万平さんたちより一世代前の私たちの頃は、一本立ちする決まった年齢というのはありませんでした。半玉時代は一年でも三年でもよくて、自分が一本になりたいと思えばなれましたよ。ただ、ずっと半玉でいるのは無理ですけどね(笑) | ||
横田 | 半玉といっても、芸者さんたちと一緒にお座敷に出るわけですが、半玉と一本芸者の違いを教えてください。 | ||
かるた | 一本になるということは、まず、誰に聴かせても恥ずかしくないよう、一通り三味線が弾けなければなりません。 | ||
万平 | 半玉はお座敷で踊るだけですからね。 | ||
鶴子 | 都会の習わしでは、一本になるということは旦那をもつということらしいですが、鍬ヶ崎ではそんなことはありませんでした。 | ||
万平 | 今思えば、みんな結構、自分勝手にやってましたよね。 | ||
横田 | その他の違い、例えば「お線香代」なども違うのですか? | ||
万平 | はい。確か私の頃だと半玉が1時間40銭、一本が70銭ぐらいだったと思います。 | ||
かるた | 1時間と言えば、お線香3本のことです。30分のお座敷であっても3本は3本。でもその後は1時間毎に1本ずつ追加されていたはずです。 | ||
万平 | それを「玉代(ぎょくだい)」と呼んでいました。 | ||
横田 | お座敷には半玉、一本さんなど、どのような組み合わせで赴くのが一般的でしたか? | ||
万平 | 芸妓を呼ぶのはお客の好みで随分とちがいますよ。半玉を一人だけ呼ぶ人もいれば、一本と半玉の二人、またはそれ以上と、これといって形式や決まりはありませんでした。 | ||
かるた | そうそう、箱番にあった例の「芸妓番付」を見てお客が注文するわけです。番付を見ればその時間、お座敷にかかっている芸妓と、空いている芸妓が一目で判るわけです。 | ||
横田 | 一日平均して何回ぐらいのお座敷を掛け持っていましたか。 | ||
かるた | それはその日によって、また、シーズンによってまちまちですよね。 | ||
万平 | ええ。確か、宴会はたいてい3時間ぐらいでしたね。あとは宴会後の二次会、三次会にお客さんたちが私らを二人連れたり、三人連れたりして出掛けるのが普通でしたね。例えば「旭屋」で宴会があれば、二次会に「相馬屋」へ。たまには宮古の「カフェ」へ繰り出すこともありましたね。 | ||
かるた | 「銀座会館」という名前の店が懐かしいですね。私は半玉の時にお客さんによく連れていかれ、サイダーとかカルピスをご馳走になりました。 | ||
鶴子 | まぁ、宴会なら赴く芸妓の数は決まっていましたが、二次会に流れると、5人もの芸妓や半玉を呼ぶ旦那もいましたからねぇ。 | ||
万平 | そうそう、次の日の朝まで飲むことも結構ありましたよ。 | ||
かるた | 宴会ではない普通のお座敷でも、夜明かしすることは結構ありましたね。 | ||
かるた | そう言えば、毎年5月頃になるとカツオ漁のエサに使う生きたイワシを買い付けにくる旦那衆がいましてね。その人たちはよく夜明かしで芸妓遊びに興じたものです。 | ||
鶴子 | たった一人で来て、大勢の半玉、一本を呼んで、飲ませ食べさせ、自分は酔っぱらうと横になって。目が醒めればまた飲んで…と三日三晩も続けた旦那もいました。結局は旦那の家で心配して鍬ヶ崎に捜しに来て連れて帰ったんですよ。 | ||
横田 | 唄もかなりあったと思いますが、各芸妓さん特有のものもあったのですか? | ||
かるた | 得意もなにも、みんなが同じように歌うし踊るし、芸達者なわけです。 | ||
鶴子 | それでもやはり、声のいい人は重宝がられましたがね。 | ||
万平 | 私の頃はその頃の流行歌と民謡が主でしたね。 | ||
後藤 | その頃の資料から見ると、鍬ヶ崎独特のものは「アンバ祭唄」「アンバ踊唄」「アンバ数え唄」「豊年唄」「大漁唄い込み」「やぐら拍子」などがあるようです。 | ||
鶴子 | 昔の唄は私らが覚えているだけになってしまいました。当時は漁師さんの御祝いがあれば、縁起のいい決まった唄と踊りをやったものです。 | ||
万平 | そうですね。船あげとか、船おろしなどですかね。 | ||
鶴子 | そんな時は4~5人で呼ばれて、決められたおめでたい唄を歌うことになっていましたが、今ではそのような風景を見ることはなくなりましたね。 | ||
横田 | 話題は少し変わりますが、芸妓さんたちは変わった名前で呼ばれていますが、この名前は誰が付けるのですか。 | ||
万平 | 自分の家ですよ。 | ||
横田 | 師匠さんが付けるというのはなかったのですか。 | ||
かるた | それはありませんね。名前はめいめいの親が、または育てた家で付けたものです。ですから本人の希望ではないわけです。 | ||
横田 | 昔からの番付を見ると名前がダブっている人もいるようですが、代替わりすれば同じ名前というのもあったわけですか? | ||
後藤 | 番付を調べると多少ダブった名前があり、二代目という場合もあったようです。しかし、その場合先代が引退してからということになりますね。 | ||
横田 | 番付で一番人数の多かったのはいつ頃でしょうか? | ||
かるた | 鶴子姉さんの頃が一番多かったのではないでしょうか。 | ||
鶴子 | そうですね。私が大正7年に半玉になりましたから、その前後が一番多かった時代でしょうかね。 | ||
後藤 | 大正10年の資料によると、芸妓40名、半玉12名となっています。この頃が鍬ヶ崎がもっとも華やいだ時代です。ちなみに、昭和10年の資料によると芸妓28名、半玉13名となっています。 | ||
かるた | その時代は私たちの頃です。きっと一本が少なかったから、17歳になると全員一本になるよう決められていたのではないでしょうかね。 | ||
横田 | 半玉さんをしている時って、早く一本立ちしたいと思うものですか? | ||
かるた | いいえ。そんなこと思いませんよ。 | ||
鶴子 | 半玉の方がずっといいです。半玉だと鈴のついた「ぽっくり」を履いて、綺麗な着物で、何より旦那衆や姉さん方など周りの人に可愛がってもらえますから。 | ||
万平 | 一本立ちするということは一人前ということですけど、芸はまだ未熟なわけですから恥をかかないよう勉強は続きます。 | ||
鶴子 | そう言えばこの間まで私が半玉の頃に履いた「がっぱ」も蔵にありましたよ。 | ||
横田 | 履き物と言えば一本になると何を履くのですか? | ||
かるた | 一本は、草履打ちの低い下駄です。 | ||
横田 | その他の違いというか、見分けはどんなところでしょうか。 | ||
万平 | そうですね、半玉と一本は着物の袖が違いますね。 | ||
かるた | 半玉は袖が長くて、髪にも飾りをいっぱいつけますが、一本は袖が短く、髪は「島田」か「銀杏返し」などを結いますから一目で判ります。まぁ、17歳で「島田」に結うのが普通でしたね。 | ||
横田 | 当時、半玉さんたちは13歳~16歳ですが、夜はお座敷に出るとして、昼はどのようにして過ごしていたのですか? | ||
かるた | もっぱら三味線、踊りのお稽古です。私は15歳で半玉に出る前、行儀見習いと称して料理屋へ奉公に出されました。そこではお膳の持ち方、襖の開け方、畳の歩き方、袴や着物のたたみ方などそれはそれは厳しく教えられました。当時の議員さん方は、宴会に全員羽織袴で出席し、挨拶が終わって無礼講になるとそれらを脱ぎます。それを三人分ぐらいずつたたんでお盆に入れ、お帰りの際は間違わないよう渡さなければなりませんでした。 | ||
万平 | そんな行儀見習いをやってからでないと半玉に出られませんでしたからね。 | ||
かるた | その次は、茶の湯、お花なども習わされましたよ。 | ||
鶴子 | 芸者は三味線や踊りがうまいだけでは一人前とは言えませんからね。 | ||
横田 | ところで、鶴子さん、万平さん、かるたさんの御三方で同時期に同じお座敷へ上がったことはあるのですか? | ||
万平 | はい、ありますよ。 | ||
かるた | その時は鶴子姉さんが一本で、私らは半玉でした。姉さんは番付5番ぐらいの売れっ子で、私らの大先輩にあたります。 | ||
鶴子 | その後、私は何年もしないで引退したんです。 | ||
万平 | あの頃は上が何人もいなかったんでしたね。 | ||
かるた | 私が半玉に出た時には、一番が「花奴」姉さんでした。 | ||
万平 | 私の時は「新よし」姉さんでした。番付は私らが辞めるまでありましたよ。 | ||
横田 | なくなったのはいつの時代でしょうか? | ||
かるた | それは戦争です。なくなったのではなく、芸者が廃止になったのです。 | ||
万平 | 昭和16年頃でしょうか。その時点で鍬ヶ崎の芸妓番付はなくなりました。 | ||
横田 | 戦争中、芸者が廃止になり、その後芸者さんたちはどうしたのでしょうか? | ||
かるた | 工場や倉庫などで勤労奉仕をしました。 | ||
後藤 | 興国呈身隊というものでしょうね。とにかくその当時、鍬ヶ崎からも様々な産業に従事するため多くの人が出ていったわけです。 | ||
鶴子 | 中には嫁に行く人もありました。 | ||
横田 | 戦後、復興してからはまた芸者さんになるということはなかったのですか? | ||
万平 | 戦後は633の学校制度ができましたからねえ。 | ||
かるた | 半玉を育てるということができなくなったわけです。 | ||
後藤 | 労働基準法など様々な法律もできて、旧体制の花柳界では半玉のような10代の少女を使えなくなりましたからね。 | ||
横田 | 姉さん方が一番楽しかった頃のことを教えてください。 | ||
かるた | 私は宮古に鹿島組(現・鹿島建設)が入ってきた頃が一番楽しかった。 | ||
万平 | そうですね。当時の田老鉱山景気はもの凄かったですよ。浜も魚がずいぶんとれて景気がよかった。 | 【対鏡閣】 鍬ヶ崎上町の山手にあった特殊な料亭。贅を尽くした建物で多くの有名人が利用したが、ラサ工業が買収、策道新設のため解体され、後に磯鶏に移転 【秩父宮殿下】 昭和11年10月26日、昭和9年に開通した山田線の視察をかねて岩手県に来県。宮古では対鏡閣に宿泊し津軽石川を視察している 【浄土ヶ浜の旭屋別館】 旭屋の浄土ヶ浜分店。現在の浄土ヶ浜レストハウス付近にあり、終戦後はGHQが占拠。前身は大正期、相馬屋、玉川両料理屋の共同経営による「東秀館(のちの開明館)」で宿泊はできなかったが、海水風呂などがあった 【かまどけぇす】 股間にスリコギを挟んで踊る、卑猥なお座敷踊り。大黒舞いの演奏とリズムで、時代により様々な春歌的歌詞が替え歌として唄われた |
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かるた | 昼のお座敷が多かったのもその頃ですから。田老鉱山で本社からお客さんを呼んで接待する時は、必ず私らが呼ばれましたよ。「旭屋」の広間は百畳敷きでしたもの。 | ||
万平 | 私が半玉の頃は「対鏡閣」でよく花見の宴が開かれましたね。姉さんたちの三味線で「東京音頭」や「桜音頭」を踊ったものです。そうそう、「秩父宮殿下」もいらっしゃいましたよね。 | ||
後藤 | 「対鏡閣」の上に総檜造りの別宅を新築して、そこにお泊まりいただいていますね。確か、昭和11年10月25日のはずです。 | ||
万平 | 船遊びもずいぶんやりましたよね。 | ||
かるた | 浄土ヶ浜へ行きました。船遊び専用の屋形船もありましたね。 | ||
鶴子 | その頃は観光の方にもずいぶん力が入っていたようで、浄土ヶ浜に団体さんがくると、半玉たちが「浄土ヶ浜旭会館」前で「大漁踊り」を披露したものです。 | ||
万平 | あと、「かまどけぇす」ですね。 | ||
かるた | そうそう「スリコギ舞い」。これはお囃子さえよければ、鍬ヶ崎芸者なら誰でも踊れました。これといった決まりや型はないんです。 | ||
鶴子 | それでも、普通の踊りはうまいのに、スリコギ舞いだけは下手な人もいました(笑) | ||
横田 | 次に鍬ヶ崎の年中行事、風物について教えてください。 | ||
万平 | お正月は、お師匠さんの家に挨拶に行きました。 | ||
鶴子 | 私の頃は確か、端午の節句にも挨拶に行きました。 | ||
かるた | 私らはお正月だけでした。 | ||
万平 | お師匠さんの家でご馳走になって、今年も宜しくということで、それぞれの名前を染め抜いた手拭いと、寸志をおいてきましたね。 | ||
鶴子 | その挨拶も時代が進むにつれて省略化していったようです。 | 【初午】 消防団の新春行事。正式には2月の最初の午の日に行う消防行事。市内各分団が一同に会し、日頃の訓練の成果を披露する。訓練後は各々宴会を開き親睦を深めた。 |
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万平 | 次に、「初午」ですね。初午の1ヶ月も前から箱番に予約が入って各人が振り分けられて、芸妓たちは各分団に行くわけです。だけど、6分団だけは上町の消防団ですから、各分団のお座敷から帰ったら必ず挨拶に行って、お酌をしたり踊りを踊ってくる決まりでした。 | ||
かるた | 6分団は町内ですから、この日ばかりは「お線香代」はいただきません。 | ||
鶴子 | 是非とも顔を出さなければならなく、行かないと怒られました。 | ||
万平 | 私はたいてい2分団でしたが、新里の方まで出張したこともあります。 | ||
鶴子 | 私はたいがい「旧館組(5分団)」でした。みんなお得意さんがいますから、毎年行く分団は決まっていたようです。分団の方では馴染みの芸妓を指名しますからね。 | ||
横田 | 「金比羅神社」や「弁天神社」の例大祭はどうでしたか。 | 【金比羅神社】 鍬ヶ崎上ノ山寺から石段を登ったところにある小祠。芸妓ばかりでなく大型船で漁をする網元などに絶大な信仰を誇った。江戸の頃は上町にあったとされる池の小島に社があった 【おくまん様】 鍬ヶ崎熊野町にある神社。正式には熊野神社。「おくまん」とは奥にあるお宮という意味【八幡様】 宮古の郷社とされる横山八幡宮。古くから宮古の秋祭りの代表格。当時は各分団が山車を繰り出し賑わった 【あんば様】 網場様が転じて、あんば様となった。正式には大杉神社。歴史はさほど古くはないが、定置網の神様として漁師の信仰を集めた。祭礼はお盆の8月15日16日だったが、現在は7月最終日曜となり、宮古の夏祭りの代表格 【おもらい】 他のお座敷に出ている芸妓に対して、次のお座敷予約を入れるという花柳界の隠語。店が同じの場合は芸者は一端辞して、次のお座敷でお酌をして戻り、約束が取り次がれたことをお客に伝える |
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かるた | 弁天様は芸能、踊りの神様ですから、毎年祭の日には舞台を作って踊りを奉納しましたね。 | ||
万平 | 義太夫とかもやりました。 | ||
鶴子 | 昔、弁天様は切り通しにあったはずですが、ラサ、田老鉱山の工事のためお引っ越しなさって、金比羅神社の祠に祀られたはずです。 | ||
万平 | 「おくまん様」のお祭りには鍬ヶ崎芸妓全員で踊りを踊って、鍬ヶ崎町内から、光岸地、築地と練り歩いたものです。 | ||
かるた | 私も歩いた記憶があります。半玉の頃でしたが、脚が棒のようになって大変でした。 | ||
万平 | 確か八幡様の時も屋台や山車を出して踊りましたね。 | ||
鶴子 | 山車は各分団が競って作り、馴染みの芸者を乗せて練り歩きました。「おくまん様」や「八幡様」に比べ「あんば様」は2晩ですから、三味線も踊る方も大変でしたが、賑やかな祭で楽しかったですね。 | ||
横田 | 各社のお祭りが終わって、それから風物的なことはどんなことがありましたか。 | ||
万平 | お祭が終わればこれといってありません。12月から忘年会、年が明けて新年会となって、芸者にとって一番忙しい季節ですからね。 | ||
かるた | 昔からこの商売は年末年始がかき入れ時ですからね。 | ||
横田 | すると、その時期には「箱番」に行っても誰も残っていないというのもあったわけですか? | ||
かるた | ええ、あります。その時はお座敷をやっている料理屋に「おもらい」という電話をします。 | ||
万平 | 「おもらい」はそっちのお座敷が終わったらすぐに、こちらのお座敷へくるように。という伝言のことです。ですから年末年始は1晩で4~5軒のお座敷を掛け持ちすることもありました。 | ||
横田 | ところで芸者さんたちは何件もお座敷を廻っているうちに酔っぱらわないのですか? | ||
全員 | そりゃぁ、もう、お酒のお相手をしているわけですから酔わないわけはありません(笑) | ||
万平 | 酔わないでお座敷を終えるなんてめったにありませんよ。 | ||
かるた | なかなか酔わない私に「お前は樽だ」と言うお客もいましたよ(笑) | ||
後藤 | 芸者さんによっては「横綱級」だったという逸話がある人もいたようですね。 | ||
鶴子 | 「小竜姉さん」あたりはかなりお酒が好きでしたね。けれど昔の芸者さん方は全員「ノンベェ」だったそうですよ。 | ||
かるた | お酒の失敗談も豊富ですよね。 | ||
鶴子 | まぁ、大概、私らも当時は「ノンベェ」ですよ。なぁに、飲まない方がおかしいぐらいですよ(笑)だって、飲んだ方が賑やかで楽しいわけですから。 | ||
万平 | お酒と言えば、支那事変あたりから、お銚子で2本だけということになって、夜は11時に警察が巡回しましたっけねぇ。 | ||
横田 | 当時のお酒は日本酒がメインだったのですか。 | ||
かるた | ビールもありましたが、たいてい日本酒ですね。お客の前で芸を張っている時は、気も張ってますから酔わないんですが、お客が帰った後で急に酔いが回るんですよ。 | ||
鶴子 | ご不浄で寝ていたとか、お客を見送りに行って海に落ちたとかね(笑) | ||
横田 | お座敷が終わってから飲み直す芸者さんたちもいたのですか。 | ||
鶴子 | 少しはいたようですが、めったにいませんね。それよりお蕎麦を食べたりすることの方が多かったですね。私はよく「梅香」で食べました。 | ||
かるた | 支那そばもありましたよね。 | ||
鶴子 | たぶん「賛成屋」の先代が屋台でやっていたはずです。 | ||
万平 | とにかく、昔の鍬ヶ崎ではどの店も夜遅くまで店を開けていたものです。 | ||
鶴子 | 今は閉まるのが早くてねぇ。夜に歩くと怖いぐらいですよ。昔の面影もどこにも残っていなくて、なんだか夢だったような気さえしますよ。 | ||
全員 | そうですね。今更ながら鍬ヶ崎も寂しくなってしまいましたね。 | ||
横田 | 今日は、姉さん方の貴重なお話、本当にありがとうございました。また機会があれば三味線などお持ちいただいて当時の唄を聞かせてください。 |