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田老鉱山

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目次

江戸末期には鉱山として採掘されていた

田老鉱山の開山は安政年間(1854~60年)で、当時の易学者だった高島嘉右衛門という人が密貿易の咎で幕府に追われ盛岡に逃れた。そして南部藩の庇護を受け、田老村で採掘し釜石付近にあったとされる藩の精錬所へ鉱石を供給したと伝えられる。しかし幕末を経て明治期田老鉱山は稼働しないまま放置された。その後大正6年に青森県八戸の井口徳治氏により採掘が再開されたがそれも短期間で休止となる。
そんな田老鉱山をラサ工業は大正8年、鉱山敷地約102万坪を当時17万円で買収。しかし、ラサ工業も即、田老鉱山に灯をともしたわけではなく、休山のまま昭和11年まで手つかずのまま放置している。

三陸フェーン大火と、鉱山終焉

田老鉱山は新たな鉱脈が発見されるなどしたが、昭和36年、5月29日、日本海を北上した台風4号の影響で太平洋側が異常乾燥のフェーン現象となり、三陸地方では各地に大規模な山火事・三陸フェーン大火が発生、田老鉱山も山火事から施設と社宅400戸が全焼する被害を受けた。ラサ工業では即座に再建を決定し、この年の12月には総工費約11億円をかけて田老鉱山は再建、操業を開始した。しかし、石油ショックと流通変革に伴い輸出入の均衡が破れると大規模な施設と人件費のかかる国内鉱山は徐々に下火となってゆく。また、災害後再調査した鉱床の規模は予想を下回り最終的に昭和47年、田老鉱山の灯は消える。施設は同49年学校法人明星学苑(東京府中市)の研究施設として譲渡され、現在も廃墟のただずまいを残しながら同大学の宇宙線観測施設となっている。
宮古精錬所も昭和54年、電気精錬部門が操業停止となり、同55年、肥料工場の人員整理、56年宮古工場を合同資源(株)へ譲渡、58年肥料部門をコープケミカル(株)へ営業譲渡、平成2年には小山田用地を宮古市総合体育館用地として市へ譲渡し、大正8年の田老鉱山買収にはじまった宮古におけるラサ工業の歴史が終わった。
田老鉱山、ラサ工業宮古精錬所は操業に伴い地元に関連会社、子会社などを多く生み出した。生産されたものは化学肥料をはじめ薬品、非鉄金属などで、通常の生活には無関係のように見える。煤煙や公害等で紛糾した時期もあったが、ラサ工業で生産されていた製品は別の工場で使う素材や材料であり、二次加工三次加工され多くの製品として私たちの身の回りにあったのである。

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/BFyZS

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