樫内の駒止桜
(かしないのこまどめざくら 種類 カスミザクラ)
名前に由来になった物語が約200年前のことなので木の寿命はそれ以上。それにしては木が小さいと感じるかもしれないが、三陸フェーン大火で被害を受けた後、驚異的な生命力で再生した木である。
出典:広報みやこ「新ふるさと博物館」
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宮古通いの商人と遊女の恋「利世」の想いが馬を止めた
江戸末期、文政の頃(1818~)花街として賑わっていた鍬ヶ崎に「高島屋」という廓があり、そこに「利世」という美しい遊女がいた。利世は江戸から三陸の俵物を仕入れにくる若い御用商人と恋仲になり、二人とも年に1、2回の再会を心待ちにしていた。しかし、文久2年(1862)利世は胸の病を患ってしまい郷里である樫内村古田の家に戻り静養したが、治療の甲斐なく19歳(18歳または21歳という説もあり)という若さで生涯を終えたという。
翌年俵物を仕入れるため鍬ヶ崎に立ち寄った若者は利世の待っている「高島屋」へ登楼した。すると「利世は病のため実家の樫内村へ戻っている」と聞かされ若者は馬を仕立てて樫内へ向かったという。しかし利世の家もわからない若者は樫内村で途方に暮れた。そんな時若者の馬が桜の木の下で一歩も動かなくなった。困った若者は村人に利世のことを尋ねると「利世は私の娘で去年亡くなった。墓はその桜の木の下にある」と教えられたという。若者は愛しい利世を想い桜の木の下で泣きくずれたという。その後村人たちは利世の愛が馬の足を止めたのではないかと語り継ぎ、以来桜は「駒止桜」と呼ばれるようになったいう。
この桜は旧田老町の文化財に指定され、3基の庚申供養塔と並んで春にはひっそりと花をつける。遊女「利世」がいた鍬ヶ崎の高島屋という遊郭は江戸末期から明治にかけて全盛を極めた鍬ヶ崎有数の廓で、一に鍬ヶ崎、二に高島屋、三に沢屋か緑屋か。あるいは鍬ヶ崎名所は、大島、小島、それにも勝(ま)したる高島屋…。とお座敷歌で唄われたほどの一流店であった。高島屋があった場所は旧弁天湯附近で、現在の宮古信用金庫鍬ヶ崎支店付近だ。
遊女の手紙
実際に鍬ヶ崎に都会の旦那衆が詰めかけて海産物の買い付けに奔走したのは、発動汽船による港の賑わいは明治後期になってからで、その頃、まだ健在だった高島屋の遊女「いね」と某商店の旦那との交情を知る書簡が残されており、当時の遊女の達筆さと文のうまさは特筆すべきものがあるという。
いそぎしたため候まま
御推し(さっし)御覧被下され度(たく)ねんじまいらせ候
一筆申上げまいらせ候
いやまし暑さにおわし御得はいよいよ御そもじにも御変わりなふ御勤候はんと蔭しも喜び居り候
そもじ事もいつに変わりなふ暮らし居り候まま御気もじくなされまじく、ねんじまいらせ候
先もじ、みの屋より御ふみとどけたまわりうれしく存じまいらせ候
其(その)ふし御地より帰り候節、緑屋の柚尾(ゆずお・遊女の名)と道伴(みちづ)れにてたのしみ参り候由、仰せ被下おどろきおり申候
いかなる者が左やうの(左様の)事御知らせ申候哉(そうろうや・疑問の意)
すこしも存じ不申(もうさず)
なにしに御身の御情うちすて他所え心をうつし可申哉(もうしそうろうかや・疑問の意)
かならずかならず真にお聞き被下(くださる)まじく神かけ左やうの儀これなく候まま
御気に御かけ給わり候ては迷惑致し申候
おん身にしみじみと徹しおり、他所のますはな(隠語・他の男の意)などは目にもたちもうさず明け暮れ候
御身のみ(身)なつかしく月日を送り申候
いよいよ暑さも強く相成(あいなり)候まま折角御かこい御勤め可給(たもうべし)
くれぐれも身を大切に相守り、又来る者はまかりこし年月恋しと想う御身に、おめもじ(お目にかかる)積もるおもいを語りなぐさみ可申(もうすべし)
あわただしき便り故(ゆえ)先つは(まずは)惜しき筆とめ申候
めてたくかしこ
五月二十六日 いねより
重信殿
かならずやかならずや余処(よそ)の人に此状(このじょう)御見せてくだされまじく(見せないでほしい)
御そもじ(あなた様)読みわけ候やう書(手紙)まいらせ候
- 意訳
急いでこの手紙を書いております。お察しください。
日に日に暑くなってきましたがあなた様にはお変わりなくお勤めに励んでいることと存じ、影ながら喜んでおります。
私も日々変わりなく暮らしておりますので、気にしないでください。
先頃、みの屋よりあなた様からの手紙が届き大変嬉しかったです。
その時、いつも親しくしている緑屋の遊女「ゆづお」から聞いたのですが、本当に驚きました。
誰がそのような話をあなた様の耳に届けたのでしょうか?
私はそのような話があったことは少しも知りませんでした。
私があなた様への想いを忘れ他へ気をゆるせましょうか?
本当にお聞きください。
私は神様に誓ってそのようなことはございません。
そのような真意のない話であなた様の心を惑わすなど迷惑なことです。
私にはあなた様しかおらず、他所の男性などは目にも入らず、あなた様との日々が懐かしく
こうして日々を過ごしております。
いよいよ本格的な暑さとなりますがお仕事にお励みください。
くれぐれもお体は大切に、また鍬ヶ崎へ立ち寄った際はお目に掛かることを、年月恋しとお待ちしております。
何かと忙しく、心惜しいのですがここで筆を止めます。
かしこ
五月二十六日 いねより
重信殿
追伸・この手紙は絶対に他の人に見せないでください。あなた様だけが読んでください。
遊女の手紙について
この手紙は沿岸史談会発行の『史潮(昭和47年発行・第5号)』に沢内勇三氏が「花街断想」として執筆した資料の中に掲載されている。それによると書簡は長さ90センチで三色の巻紙に達筆な筆でしたためられているという。手紙は当時鍬ヶ崎でも高級店とされた「高島屋」の遊女「いね」が遠く離れた土地にいる旦那(パトロン)に、つのる想いと自分の存在を忘れさせないようにと宛てたものだが、実際にこの手紙が遊女本人の手によって書かれたかどうかは疑問だ。この手紙の文章の中には漢文寄りの表現などもあることから筆の立つ第三者による代書であった可能性も否めない。
もしかすると花街には遊女たちが旦那との情をつなぎ止めるための文を書く代書屋のような存在があったのかも知れない。