長根寺
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真言宗智山派に属す真言の寺・長根寺
長根寺は室町時代の天文年間(1532~1554)と、昭和17年(1942)に火災に遭っているため記録のほとんどを焼失、また、明治の神仏分離令により無住になった時期もあり正確な創建年代は特定できない。長根寺の歴史を記した『長根寺物語』によると長根寺22世・祐義の代(明和2年1765)に文書や口伝を頼りに歴代住職を記したという『世代由緒書』があり、これによると一度目の火災に遭ってから宝暦6年(1756)までの歴代住職の20名が記載されている。また市内の個人宅には長根寺に寄進したという大般若経の写しの一部が古文書として残されており、南北朝時代の文和年間(1352~1356(北朝))の記載があるという。
現在の長根寺は真言宗智山派に属す真言の寺だ。本尊は不動明王で岩手県三十六不動尊霊場二十番札所、寺宝の十一面観音に関係して三陸三十三観音三十二番札所でもある。現在の本堂を含めた建物は昭和17年の火災後に再建されたもので、本堂脇には寺持ちの水田を耕す牛の尾から這い上がってきたという「尾玉尊」が祀られる社殿があり、内部には火災を免れた仏像が安置される。尾玉尊は疱瘡除けの御利益があり、藩政時代に姫君病気治癒のため盛岡城に貸し出された経緯があるという。尾玉尊の例大祭は毎年5月前半の日曜日で、護摩供養をはじめ、黒森神楽などが行われる。
長根寺22世・名僧・祐義
古くは天明から文化・文政時代(1781~1829)の江戸末期にはるか西国からも文人墨客が訪れたという真言の寺・長根寺は、老杉閣(ろうさんかく)と称して当時の宮古下閉伊きっての俳句をはじめ文学の聖地だった。その名残として書きそんじた紙などを供養する江戸期の反古塚も2基が残され、そのうちの1基は幻住庵祇川反古塚として宮古市指定文化財となっている。そんな長根寺は書や歌に長けた名僧を多く輩出しているが安永7年(1778)に長根寺二十二世となった祐義も俳句と書を愛し、詩学の道に長けた人物だった。祐義は盛岡に生まれ23歳の時に長根寺へ入り、37歳で権律師(ごんりっし)、45歳で権大僧都(ごんだいそうず)となった。臨終まで花鳥風月を愛で次の一句が墓碑左脇に刻まれている。
- 病三奈可良 (やみながら) 口葉(盤)未女也 (くちはまめなり) 時雨の日 (時雨の日)
墓碑は長根寺旧墓所最上部にあり天明八年(1788)十月二十一日と没年が刻まれている。また右側面にも祐義法師の人となりが刻まれているが風化が激しく拓本でも文字を読みとるのは難しくなっている。
宮古市指定文化財・幻住庵祇川(ぎせん)反古塚
長根寺山門の上り坂に地蔵の祠と石碑群がありその中に「幻住庵祇川反古塚」がある。反古(故)塚とは書き損じた書などに敬意をはらい中国の古事に習って供養する塚で広く漢学が学問として認められた江戸中期頃から文人や俳人などの手により盛んに建立された。祇川という人物は青灯下(しょうとうか)と称し滋賀県蒲生(がもう)郡日野出身の江戸後期の俳人だ。芭蕉の門人だった許六(きょりく)系の俳人・治天(ちてん?)の門下とされ、明和8年(1771)長根寺二十二世祐義法師の招きで宮古に訪れ長根寺に約3年間滞在した。この間、祐義法師を中心に地方の俳諧同好の士と交わり俳諧文学の指導にあたった。
石碑は中央に幻住庵祇川反古塚とあり、右に「山ひとつ三奈(やまひとつみな)」、左に「名残越し花の時」とあり、石碑右側面に安永六丁酉(ひのととり)江州義仲寺(ぎちゅうじ)建立とある。義仲寺は祇川の故郷でもある滋賀県の大津市の松尾芭蕉の墓がある寺だ。この反古塚も晩年の芭蕉が使っていた号「幻住庵」と刻まれていることから、碑は元禄7年(1694)に没した俳聖・松尾芭蕉に敬意を表し建立されたものと考えられる。
祇川が京に帰ることになった安永3年(1774)の春、長根寺の祐義や門人たちと別れる日が来て、門人たちは祐義を中心に祇川との別れの句座を設けたという。長根寺は折しも梅の花が盛りで古木あり、若木あり、白梅紅梅がほのかな薫りを山内いっぱいに漂わせていた。この別れの句座も芭蕉が死を迎える際に門人たちを集めて開いた句座に習ったものであり、祇川は門人の句を一読したのち、宮古を離れる感慨をこめて石碑にある句を口ずさんだという。祇川が長根寺に滞在していた頃、旅を手段として句を残した芭蕉が没して約80年が経っていた。その影響は以後の俳人たちに大きく受け継がれ、祇川の陸奥の辺境地宮古への旅も芭蕉の思想を辿る旅だったかも知れない。
吟遊詩人幻住庵祇川の人物像
祇川は明和年間(1764~1771)宮城県岩沼に居住し多くの俳人を世に送り出していたという。明和九年(1772・安永元年)長根寺住職・祐義に招かれ長根寺で数年間の間、句作にふけり近郷近在の俳人の師として仰がれた。仙台藩主の金子御用、中井家の荒浜荷揚げ処の駐在の武家や僧侶などではなかったかといわれているが、その身分については不明だ。
祇川が長根寺を去るにあたって、祐義に俳諧良材兵席教訓、執筆武連楽悟の写しを与えたという。これが市内の神林家宅に保存されていたが貴重な資料として長根寺に寄進された。俳諧作法、文台兵席の上にその基本を示しているものであったといわれている。
安永3年(1774)の春、宮古から京に帰った祇川は、江戸中期の俳人であり京都の僧侶、蝶夢(ちょうむ)の好意で「幻住庵」の号を与えられ、以来、幻住庵祇川と呼ばれたという。
祇川は宮古を去って数年後の安永6年(1777)8月5日に、彦根(滋賀県)の善照寺という寺でその生涯を閉じた。
安永8年(1779)の秋に祇川の門人をはじめ、知己友人は、祇川の追悼句集「風の蝉」を上梓した。その中に宮古長根寺の祐義法師の句「枯枝を切りおしみけり 梅の藤」が見られる。
滅罪と祈祷・長根寺の寺歴にせまる
長根寺の歴史は室町時代の天文年間(1532~1554)と、昭和17年(1942)に二度の火災に遭い記録のほとんどを焼失、また、明治期の神仏分離令により無住となった時代もあることから正確な創建年代は特定できない。
「長根寺物語」によると、火災で所々焼失してはいるが歴代の住職を記した「世代由緒書」という古文書があるという。これは宝暦六年(1756)に三戸の「恵光院」から入寺した、長根寺22世・祐義の代に記されたもので、「当山開基祖師以降年代之住職不詳・以古老之申伝(とうざんかいきそしいこうねんだいのじゅうしょくふしょう・もってころうのもうしつたえ)」と冒頭にあり、天文の火災後からを記録や口伝を頼りに記されたものと考えられ、明和二乙酉(1765・きのととり・江戸時代)の年号がある。この古文書によると火災後の天文七年(1532・室町時代)の阿じゃ梨から、祐義を含め宝暦六年(1756)まで20名の僧名がある。
では、天文年間以前の長根寺はどうであったろうか。「長根寺物語」によると市内個人宅で所有する、長根寺に寄進したという「大般若波羅密多経六百巻」の写しの一部に文和二年から書き始められたことが記されていたとあり、文和年間(1352~1356(南北朝時代・北朝年号))には寺として存在していた可能性がある。また、昭和17年の火災で焼失した古文書の中に、「阿字観通節解(あじかんつうせつのかい)」という仏書があり、末巻の奥書に「時に世乱れて両大帝あり、吉野御村上帝の暦号なり、三年は北朝光明の貞和四暦号なり」と記されていたとしている。この文書から年号を推測すると南北朝時代の正平三年(1348)には長根寺が存在したということになる。
南北朝以前から現在の長根寺付近には信仰媒体、あるいは小規模な宗教施設があったとも考えられており、これらは昭和63年に発掘調査された長根遺跡、沿岸エミシの長であったとされるスカノキミコマヒロにも関係すると考えられる。それらが全て長根寺と関係するとは断定できないが、長根寺の「長」は「おさ」とも読むことから一族の「おさ」が住んでいた「ね」=丘、丘陵地という推測も可能であり、長根寺周辺は遺跡の規模もふまえて鎌倉時代をも遡る歴史があった可能性も浮かんでくる。また、市内の寺のほとんどが曹洞宗として盛岡の南部家菩提寺・報恩寺につながっているのに比べ、長根寺は真言宗であり、思想は仏教が分派する以前に土着していた「雑密(ぞうみつ)」に近く、山岳修験とも密接な関係がある。黒森神社に関係する江戸期に廃寺となった安泰寺、黒森神社に奉納された北朝年号のある鉄鉢(貞治7年・1362・北朝年号)、館合公園の経塚の碑(一字一石塚)、鍬ヶ崎の暦応の碑(暦応3年・1338・南北朝初期)などの石碑、山口で発掘された10世紀以前の錫杖等の法具にも何らかの関係があるかも知れない。しかし、残念ながらそれらの糸をつなぐ手がかりは今となっては探るすべもない。
現在の長根寺は真言宗智山派に属する寺で、本尊を不動明王とし岩手県三十六不動尊霊場・二十番・札所、また、寺宝として十一面観音木像等があることから、三陸三十三観音・三十二番札所、岩手県三十三観音・八番札所でもある。本堂を含めた建物は昭和17年の火災焼失後、再建されたもので現在、第33世武田秀山(40)氏が住職をつとめる。本堂左には山号の由来にもなっている尾玉尊社殿があり、火災を免れた諸仏や炭となった仏像が安置される。寺背後の墓所には江戸初期から中期まで南部藩の家老として宮古地方を統治していた桜庭氏墓所碑群、白山神社などがある。火災前までの山門には、江戸末期に廃寺となった山口の「赤龍寺」から移転した、巨大な仁王が鎮座していた。仁王には紙を口で噛んで柔らかくしそれを仁王に当てて仁王の力にあやかる俗信があり、古老の中にはそんな噛紙で汚れた長根寺の仁王の姿を覚えている人も多い。