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尾玉尊

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=(お玉様)

目次

尾玉尊とは

長根寺の尾玉尊はその昔、南部藩の姫君が病気の際に持ち出され病を快方に向かわせた霊験があるとされる。以来、尾玉大権現として長根寺に社を併設し疱瘡除けの神として里人たちに信仰されてきた。現在の尾玉大権現の縁日は毎年5月の第二日曜で、長根寺本堂では護摩が焚かれ、黒森神楽が舞う神仏混合の大祭となって賑わう。

尾玉尊大祭

尾玉尊は通称「おだま様」の愛称で古くから里人の手によって崇められてきた信仰媒体で、真言宗智山派に属する玉王山長根寺に隣接した尾玉殿という社に鎮座する。御神体は牛の体内から出てきたという不思議な玉で、疱瘡除けの御利益があるという。長根寺では毎年旧の3月27日に尾玉尊の大祭を行ってきたが、近年は5月の第二日曜に大祭を行っている。
尾玉尊大祭は、戦後になり神楽と湯立神事中心となっていたが、近年、長根寺33世武田秀山(40)住職になり本来真言宗の寺であることから古来より行われてきた護摩祈祷を復活させ、ここ数年、尾玉尊大祭には所願成就の大護摩供が行われている。また、尾玉尊は通常の神社のように諸神を御神体とせず、特殊な物体を祀ることから大祭の概要も通常の神社とは趣が違い、沿岸において寺院で行われる奇祭でもある。
大祭は長根町内をまわった子供樽神輿が境内に到着する午前10時より行われ、境内に置かれた臼を囲んで黒森神楽による「シットギ獅子」が舞われる。とき同じくして本堂では僧侶による護摩祈祷が行われ、本尊の不動明王を前に大きな炎が立ち上る。集まった信者たちは僧侶の護摩祈祷を見守り、終了後炉に残る煙に持ち物をかざしたり、煙を身体につけて無病息災を願う。護摩祈祷が終わった本堂では天照大神をはじめ諸神が染め抜かれた岩戸開きの幕が張られ、その前で黒森神楽による清祓、山の神、恵比寿などの神楽が奉納される。
このように密教寺院として護摩供養が行われ、寺の中で神楽が舞われたりする祭は極めて特殊な形態であり、長根寺の特殊な側面が伺える。これは明治政府が発布した神仏分離令に相反した形で信仰形態が取り残され、後に復活した経緯を物語っており、尾玉尊独特の祭として受け継がれてきた証しでもある。

尾玉尊御開帳

尾玉尊は南部藩に貸し出された際、尾玉大権現の霊験が認められ、藩では尾玉尊を返却する際に当時としては大変高価なビイドロ(ガラス)のふた付き容器に入れて長根寺へ戻した。その際に、霊験ある信仰物であるから、今後一般の目に触れぬよう指示が下されたと考えられる。これが尾玉尊御開帳に関する言い伝えの発端であり、一説には50年に一度の御開帳しか許されないという説もある。実際には12年に一度の丑年に御開帳が許され、丑年の丑の日を縁日とし、丑の刻に住職がご神体を手に護摩を焚いて祈祷したという話も残っている。

疱瘡除けの霊力・尾玉尊の歴史

尾玉尊の歴史は「長根寺物語(沢内勇三・昭和43年発刊)」によると、昭和17年の火災で一部が焼失した「尾玉霊尊略縁起」という古文書に大同年間(806~810)に尾玉尊を奉納したとの記載があるとしているが、この年号は古文書の枕詞として頻繁に使われ、平安時代にまで遡ることから長根寺の存在に確証がなく後の時代に古文書を書き写した人が誇張したものと考えられる。
江戸時代に書かれた南部藩の「邦内郷村志・三巻」には「田を掻く時、牛の尾に付きあがる。藩公御取上、錦の袋へ入れ、ビイドロの厨子へ入れ、黒漆に金の向鶴紋(南部の家紋)の厨子に入れ、潔斎し願えば即見る也。栗毛の如く、形は宝珠の如く、卵程也」と記された尾玉尊の説明がある。これを元に里で語られた伝説は次の通り。
今から220年余前、南部藩主の姫君が不治の病に倒れた。藩医が手をつくしたり、世に聞くあらゆる妙薬を試したり、神仏に祈ったりしたが一向に快方には向かわなかった。そんなある時、閉伊の里・宮古長根寺に難病に効く霊力のある玉があることが藩公の耳に入った。藩では早速早馬を飛ばし、長根寺の尾玉尊を取り寄せ姫君の部屋に祭壇を設けて祈祷した。その後姫君の病は快方に向かったため、長根寺は藩公自筆の「御玉神添書」を賜ったという(火災で焼失)。その書面には「今後みだりに公開まかりならぬ」の意味がしたためられていた…。というものだ。これが尾玉尊ご開帳を制限するきっかけとなり、以来12年に、或いは30年、50年に巡る丑年の丑の月の日に一度しかご開帳しないというしきたりを生んだものだ。また、この制限が益々里人の信仰に拍車をかけ、江戸末から昭和初期まで尾玉尊の大祭には多くの信者が集まり参道は人で埋まったという。

謎の御神体、尾玉尊の正体は何か

「尾玉尊略縁起」によると御神体はその昔、長根寺持ちの田圃で田を掻く農夫が見つけたもので、発見当初光りながら牛の尾を這い上がってきたとされる。自体が発光していたとか、玉が自力で這い上がったという話は誇張として考えるが、尾玉尊とは牛から出た物体と思われ、正体はおそらく牛の内臓に胆汁で作られる結石であると考えられる。漢方では同様にしてできた結石を「牛黄(ごおう)」として鎮静剤に珍重する。形状は卵形で全体に毛が密生した固形物だ。また、形状は「邦内郷村志・三巻」が示す通り、卵ほどの大きさに栗色で、観音や地蔵など諸仏が手にする所願をかなえる如意宝珠に似ていると思われる。大祭に集まった「御神体を見たことがある」という老婆の話によると、ちょうどキュウイフルーツのような見栄えと形だったという。ちなみに尾玉尊が発見された寺持ちの田圃は青猿地区(変電所付近)だが、現在埋め立てられ宅地となっている。

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