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経塚の碑

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目次

経塚の碑とは

「一石様」の愛称で親しまれている舘合近隣公園には、その愛称の通り「一字一石の碑(碑文は一石一字)」という古い石碑が建っている。一字一石の碑(以後経塚の碑と記)は、碑は高さ約2・6メートル、幅1・85×メートルで中央に密教思想(大日如来)を思わせる直径34センチの円があり、下部に「五部大経 一字一石 雲公成之 永和第二」の文字がある。文字は浅く彫られているが一文字が約25センチほどの楷書体で、江戸時代の儒学者・市川寛斎が絶賛しその著書『金石私志』に掲載したという記録が残されてる。
碑に刻まれた「永和第二」という年号は西暦1376年で、これが南北朝時代の北朝年号となっていることに大きな意味があり、南北朝時代の宮古を探るうえで大きな指針となるものだ。宮古にある南北朝時代の石碑は経塚の碑(岩手県指定文化財)と鍬ヶ崎小学校裏にある暦応の碑(宮古市指定文化財)の2体で両碑とも数ある江戸時代の石碑とは一線を画す崇高さがある。
経塚とは小石に一文字ずつ経文を写経しそれを土中に埋めその上に立てた石碑だ。経塚の碑に埋蔵された「五部大経」とは天台宗大乗経とされ華厳経、大集経、大品般若経(摩訶般若波羅密経)、法華経涅槃経の大乗をさす。これを南北朝時代の永和2年に雲公という人物が写経しこれを成したということになる。
  経塚の碑は石文としては県下第一の書として広く認められているが、雲公のことについては何ひとつ伝えられていない。碑は、別名「一石一字塚」とも呼ばれており、昭和50年(1975)3月に県の史跡に指定された。

金石私志之五にはどんなことが書かれていたのか…

経塚の碑の書がすばらしい書であり、年代も南北朝時代のものであることから全国的にみても貴重な経塚であることは知られているが、江戸時代にこの碑の拓本を取り、師に送ったという菊池五山、そしてその師匠である市川寛斎なる人物と、寛斎が編纂したという『金石私志』については今まで紹介しきれていなかったので今回は経塚の碑とその周辺として詳しく紹介する(漢文読み下しはできるかぎり翻訳しましたが、正確ではない場合もありますので御了承下さい)

  • 金石私志之五 寛斎別集読み下し

座する石の経銘は、南部宮古の県(あがた)の舘合(たてあい)村に在り。
永和二年、雲上人なる者の建つる所なり。擘w(はくか)の書大にして、李北海(りほっかい)の風格有り。
顧みれば当時、趙呉興(ちょうごこう)の蹟(せき)緇徒(しと)の間(かん)に盛行(せいこう)す。
蓋し(けだし)これを善く(よく)学んで上達の者なり。其の地は係奥(けいおう)の極北。
南部の治城(ちじょう)より、三百来里(さんびゃくらいり)を距ち(へだち)
騒人墨客(そうじんぼっきゃく)の遊蹤(ゆうしょう)至(いた)るを罕(まれ)とするがゆえに、世人(せじん)未だ(いまだ)これを知らず。
菊池五山の捜尋(そうじん)に自り(より)、いずくんぞよく二千里の外に出現せんか。
親しく観るに、赫々の光(かくかくのひかり)哉(かな)。
余、特に書を愛し、寧一山(ねいいちざん)の碑のつぎに定座(ていざ・座を定むでも可)する。

  • 大意文

存在する石碑のお経の銘(文字)は、南部は宮古という田舎の舘合村にある。
永和二年(1376)に身分のある人(雲上人)が建てたものである。
篆刻(てんこく)の大字の書体は大らかで、かの有名な唐代の書家、 李北海の書体の風格がある。
その昔を顧みると、当時は趙呉興の書蹟が僧侶のあいだに盛んであった。
まさしくこれは、よく書を学んで上達した者(の書蹟)である。
南部の(殿の)治城からでもざっと三百里距って(へだって)おり、
詩人や書家が旅して遊ぶ跡として行くのはマレであるから、
世の中の人は、いまだにその存在を知らない。
菊池五山の捜索のおかげで、なんとよくも、二千里の外から発見されたものだ。
親しくその書蹟(拓本)を観ると、すばらしく輝くものであるわい。
私はその書を愛し、寧一山(ねいいちざん)の石碑の次に評価します。

経塚の碑の書を賞賛した江戸の儒学者・市川寛斎

市川寛斎(いちかわかんさい)1749~1820。江戸後期の儒学者であり漢詩人。名は世寧(せねい)、字名は子静(しせい)また嘉祥(かしょう)、通称は小左衛門。寛延2年(1749)上野国甘楽郡南牧村(現・群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。地方に埋もれるのを嫌った寛斎は少年時代より江戸に出て学問を学んだ。寛政元年(1789)江湖詩社(こうこしゃ)をおこす。門下生に柏木如亭、菊池五山らがいる。同3年、富山藩前田利謙に招かれ藩校の教授となる。のち江戸に戻り文政3年(1820)72歳で没した。著書に『日本詩紀』『全唐詩逸(しいつ)』『金石私志』等がある。(「国史大辞典」1による)

経塚の拓本を市川寛斎に送った門下生・菊池五山

菊池五山(きくちござん)1769~1849。江戸後期の漢詩人。名は桐孫(とうそん)、字は無絃(むげん)、通称は左太夫。明和6年(1769)讃岐国高松に生まれる。祖父、父とも高松藩に仕えた儒学者であった。五山は10歳で父から詩を学びやがて京都へ出て学んだ。のち江戸へ出て市川寛斎の門下生となり、寛斎の江湖社のなかでも有力な詩人となる。晩年、江戸本郷に詩塾を開いていたが、嘉永2年(1849)81歳で没した。(「国史大辞典」4による)

寛斎が私的に集めた名書の集大成『金石私志』

市川寛斎が著した『金石私志』は全国の銅鏡や石碑などにある書を私的に集め、それらを分析、評価したもの。舘合近隣公園にある経塚の碑は、金石私志の第五巻に「陸奥宮古経塚碑」として掲載されている。原本は東京の国会図書館にある。

経塚の碑の謎と展開

経塚の碑の書は「雲公」と名乗る人物の手によるものとされる。しかしこの人物についての記録はなく南北朝から室町にかけての宗教者であったろうと推測するしかない。『金石私志』の漢文において仙人や高貴な人を意味する「雲上人」という表現があるため、後世の研究者たちは「雲公」なる人物から高僧を想像しがちだが、あえて「公」の意味を「忠犬ハチ公」のような「公」として解釈にすると「雲公」とは自らを飄々と雲のように流れる一僧という意味として捉えることもできる。すなわち「雲公」という宗教者は中央の著名な僧侶ではなく、黒森神社山麓にあったとされる真言系の安泰寺、赤龍寺などの住職だったかも知れない。
また、全くの想像ではあるが経塚の碑の拓本を師、市川寛斎に送った菊池五山についても、江戸の漢詩人が無目的で陸奥の果てまで足を運んだというのも不自然であり、別の来宮目的あったと考えられる。五山が32歳の時の享保元年(1801)は伊能忠敬が日本地図測量のために宮古に入っており、五山もこの一行に何らかの関係があったとも考えられる。伊能忠敬は未開の地をくまなく測量し、五山は北東北に眠る未だ見ぬ書を求めてこの地を彷徨ったのかも知れない。

指 定:昭和50年3月4日・県指定史跡
場 所:宮古市舘合町29-6
問合せ:宮古市教育委員会文化課0193-62-2111
【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)宮古の教育:宮古市教育委員会(各年度改訂)
  • 出典:月刊みやこわが町

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