鉄山かせぎ
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三閉伊一揆の引き金ともなった南部藩の製鉄
岩手県で鉄が生産されるようになったのは藤原氏の平安時代からと古いが、下閉伊、九戸で砂鉄山(たたら製鉄)が大規模に行われるのは寛政年間(1789~1801)からである。この鉄生産と一揆の関わりも深い。その背景には今でも残る「鉄山かせぎ」という言葉にもある。それはいくら働いても賃金を払ってもらえない住民たちの怒りの言葉と行動でもあった。
たたら製鉄で栄える沿岸部に重税が課せられた
当時の精錬方法は平戸精錬で7×4×3尺ぐらいの炉(タタラ)に、吹子(フイゴ)2~4個をつけ木炭を三昼夜燃やして吹き続け約500貫前後の生産をあげた。
岩泉の中村家と大野村の晴山家が大規模な鉄山経営を行っており、中村家は万谷、板橋、室場、大披、常盤、割沢、大獄などの鉄山を有し、毎年10万貫前後の鉄を宮古港から仙台、水戸、江戸に移出していた。
農業生産力の乏しい安家村、岩泉村、田野畑村に、当時最も近代的な鉄産業が経営されだしたから、20代の若者は鉄山労働者、30代は鉄運搬の駄賃付きの牛方や馬飼育に、老人、子どもは鉄山燃料の炭焼き、婦女子は養蚕、織物などと、仕事は分業化し他との交流が開け、米を買い入れるなど、貨幣経済の密度の高い社会構造になってきた。
しかしながら、自給自足の生活から換金産業として発達したたたら製鉄は、寛政期の後半から生産が強化されてきた。すなわち、藩主は商業化、産業化が生じた生活余剰の部分までも徹底的に収奪し、経営者、その使用人、一般大衆に帰属する利潤を吸収したのである。一揆はこれに対する抗議でもあったのだ。
悪行を尽くす鉄山支配人に蜂起
岩泉の鉄山は最初、佐々木彦七(中村家)、次いで中村理助、終わりは門村の佐藤儀助が経営した。
佐藤儀助は、金20両を納めて苗字、帯刀を許され、南部藩経営の総鉄山の支配人に任ぜられていた。しかし、使用人を藩命によって強制徴用し、自分は藩から使用人の給料を受け取っておきながら使用人には全然支払わなかった。
耐えかねて逃げ出すものがあれば捕縛したり、牢屋に閉じ込めた。
このことから儀助以来、働いても給料が支払われないタダ働きのことを「鉄山かせぎ」と言うようになった。
弘化の一揆では、宮古本町にあった酒屋・若狭屋が襲撃された。群衆は家屋、土蔵までも壊し怒りを爆発させたが、この若狭屋は佐藤儀助の経営だった。
嘉永の一揆では群衆は野田村の大披鉄山(おおひらき・現田野畑村)も打壊して南下してくるが、これも儀助の経営で、さらに小川にあった儀助邸も打ち壊しにあっている。
「野田村歴史ものがたり」では「天保11年(1840)、用木の伐採や粗鉄の輸送の労働者として、安家村や沼袋の百姓をかり出し賃金の支払いをしなかった…」と記されている。
今なお残る鉄山部落。一揆はここも駆け抜けた
田野畑村の七滝という地区に今でも「鉄山」と称する地域が残っている。全4戸あまりの小さな集落地の中に、南部藩の経営していた鉄山鋳銭所遺跡がある。ここは大披鉄山で嘉永の一揆では打壊しにあっている。
現在は畑の中にわずかに炉の跡のようなものが残るだけだが、周辺は灰色の土が一帯に広がり鉄山跡の名残りがある。昔はここで多くの砂鉄が採れたと言う。
鋳銭所は900坪の平坦を板塀にて囲み、表門と裏門を設け両門に門番を置いた。溶鉱炉のある建物は90坪。その傍らに「炉の神」を祭ったとの記録も残る。
嘉永の一揆では、仙台藩に越訴した群集はその代表者45人を残し、49条の願主を提出している。
一、御隠居された甲斐守南部 利義公を藩主にしてほしい
一、三閉伊の百姓共を仙台領 民にしてほしい
一、三閉伊通りを幕府直轄と してほしい
という、重点要求に加え、行政、税制、産業税、商品税に関する要求と、その中に「御鉄山御用人足之事」も含まれていて、鉄生産現場の待遇改善を求めている。このことから鉄山も庶民の中で重要な位置を占めていたことがわかる。