三閉伊一揆
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革命か暴動か。強訴と打ち壊し
一揆は江戸時代に農民が団結して支配者に対した反抗運動だった。年貢の減免や悪役人の交替などを求めて、直訴や実力行使の強訴、逃亡する逃散などの形で行動していた。「三閉伊一揆」と呼ばれるわが国最大級の農民一揆が起きたのは、いまから約160年前のこと。佐々木弥五兵衛・畠山太助という田野畑村の指導者らによって、歴史に深く刻み込まれる大きなうねりを巻き起こした。最後には藩政の改革へ至らしめ、自らの生命と暮らしを守った。
三閉伊一揆の群像と幕末明治の南部藩
一揆という名称は一揆を起こす側から発生した言葉だ。意味は密かに計画した「はかりごと」を意味し「よりどころとしている道は皆一つである」という信念を表している。
しかしながら藩政時代において一揆は御法度であり首謀者は死罪であった。それでもなお藩の悪政非道に対して命をかけて立ち上がる者がいた。米作北限地帯とされ冷害や干ばつにより凶作が続いた田野畑村から封建社会に対する百姓たちの狼煙があがり、そのうねりは江戸末期の三閉伊を駆け抜けていった。
一揆の引き金は無謀とも言える南部藩表石高のアップの政策だ
元来南部藩が幕府に対して登録していた表高(石高)は10万石だった。しかし実際の石高は23万石ほどありこの倍以上ある実石高の差で参勤交代や藩内の神社仏閣普請などを行っていた。いわば、幕府に対しての申告とは別の「裏帳簿」があり、このおかげで藩経済は均衡が保たれていた。また、百姓たちも南部藩が幕府に申告した石高との差があるように実際の作付け面積の申告や生産量は曖昧であり、申告する年貢も調整されていた。百姓たちは凶作や飢饉、村の普請や伊勢参り、冠婚葬祭などに対応するため藩に申告しない場所や山中を開墾し米を収穫していた。これらが俗に「隠し田」「化粧田」と呼ばれ、隠れ里伝説などにも関係する。
江戸中期から冷害、干ばつなどの天候不順による凶作が続き米作北限地帯でもあった三閉伊地区では多くの餓死者が出た。特に宝暦年間から寛政年間(1751~1800)は凶作が続き藩内の各通りはもちろん、城下盛岡でも道ばたに餓死者の死体が転がっているほどだったという。人々は天を恨み神社や寺に火を放ったり、夜盗と化して盗みをはたらいた。また、田畑を捨てて無宿人となる者、物乞いに落ちぶれる者なども多く治安は悪化した。こんな世相に対して南部藩はこれといった対策を講ずることもなかった。そして文化6年(1809)南部藩はかねてからの念願だった家格昇進が認められ凶作で衰弱しきっていたが表高を10万石から倍の20万石へとアップする。これには分家格下と見ていた津軽藩の表石高アップも影響しており南部藩は20万石大名へと昇進したがこれにより幕府への御用金も倍となり諸藩に対して地位こそ守れたが、外国船警備、蝦夷地警備など新たな出費が発生する。これらを賄うため南部藩は三閉伊のあらゆる産業、生産物に対して重税を課せ同時に、豪商に武士株として禄を売り出す末期的な藩経営へとシフトしてゆく。
厳しい重税制度による年貢の取り立ては凶作などにより規定年貢に満たない場合でも容赦せず、足りない米を他所から買ってでも帳尻を合わせろという非情な取り立てだった。このため農家では足りない年貢分を金銭で補うため米以外の穀類や魚介類を売ってこれをしのいだ。また、農民には年貢の他に役銭などの税金、知行地ではその土地を支配する武士の冠婚葬祭などにより特別税などが課せられることもあり、二重三重に搾取された。この他に南部藩では五十集、炭焼き、杜氏などの仕事にも新たな役銭や税金を加えたり値上げをして税収アップにやっきになった。一揆はこのような背景の中で計画され、三閉伊各地で小規模な一揆が発生し、最終的には弘化4年(1847)、全国最大規模と言われる嘉永6年(1853)の三閉伊一揆へと発展してゆく。
南部藩は日本一の一揆多発地帯・野田通、下閉伊は一揆常習地区
江戸時代後期、田野畑や岩泉、宮古花輪周辺で多発した一揆だが、当時は理由のいかんを問わず、集団的な運動をすることは徒党がましい行為として国法で禁じられていたが、凶作などで年貢諸役の減免をすることは生活権として認められていた。
ただし、必ず村役(肝入、老名)を通じ、所属の代官所に願い出よというもので、大衆行動に出た場合、首謀者は死刑という厳しい定めだった。
南部藩内では、亨保年間ごろまでは一揆はほとんど見られなかったが、寛政年間を境にした後期にはしばしば発生し、幕末にかけては規模も大きくなり、日本でも一番多い百姓一揆の多発地となった。近世以後明治2年までに約153回も発生している。米作北限地による冷凶の飢饉や、洪水、津波の自然災害に加えた藩の失政が大きかったことに起因する。
ちなみに他の藩での一揆発生は秋田87、広島77、金沢70、徳島64、宇和島63で、隣接する仙台藩は5回と少なかった。
野田、宮古通りを駆け抜けた農漁民・藩政時代最大規模の一揆
三閉伊一揆として知られる一揆は、指導者・弥五兵衛の指揮で遠野城下まで南下した「弘化の一揆」と、指導者・畠山太助ら本隊、先手組が釜石を越え仙台領まで南下した「嘉永の一揆」がある。
弘化年間(1844~47)のこの時代、農漁村は凶作に見舞われることはあったが、税金が重いことを除けば、毎年秋の収穫を終えると、村の幾人かが伊勢参りをするなどして細々と暮らしていた。
しかし、文化、文政の約20年間にわたる好況も行きづまりを見せ、土地生産力も変化しつつあった。南部藩の財政は、元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉(ききん)など度重なる凶作、鉱山経営の金山から銅山への転換による収入減、大井川改修や日光山本坊改修など幕府からのたびたび要求される御手伝普請(おてつだいぶしん)、蝦夷地(えぞち・北海道)警護のための負担、強引な20万石への家禄加増に伴う付き合いと軍役増加などによって疲弊し、商人や農民への負担強制につながった。
一揆で改革を説く老人・弥五兵衛
天保大飢饉のあと、三閉伊をはじめ、稗貫、和賀地方などの村々を回り、密かに全領一揆の必要を説いて歩く老人がいた。野田通浜岩泉切牛村の弥五兵衛で、塩の仲買を稼業にし「田野畑の祖父様」と呼ばれていた。弘化4年(1847)10月。藩は再度六万両の御用金を賦課した。中でも宮古、大槌、野田の三閉伊通りの額が他より多かった。そして11月、こうして諸物価が高騰、領民の間に不平不満が満ちて、ついに農民漁民の怒りが爆発。野田通りの農民4人が浜岩泉に集まって一揆を計画、11月20日には約300人が大芦村(田野畑)の大芦野に集結し、弥五兵衛の指揮によって一揆の狼煙があがった。その群集は小本(岩泉町)、田老、宮古、山田、大槌と南下し、栗林村(釜石市)の一揆とも合流して遠野に至った時には12000人に達した。この一揆は三閉伊の農民が藩政改革を求めて遠野に強訴したもので、遠野領主の尽力によって一人の処分者も出さず、25カ条の要求のうち、12カ条を受け入れさせることに成功した。しかし、弥五兵衛は一揆後も「お上にさからう者」として、密偵にねらわれ下宮守村(遠野)で捕えられ、盛岡送りで拷問を受けた末に嘉永元年(1848)6月15日牢死した。
宮古を駆け抜けた弘化の一揆の炎
この一揆が通過する時には、代官所役人の説諭にも「騙されるな、騙されるな」と連呼して「耳にも聞き入れず指示に応じてときの声を発し、貝を吹きたて大地を踏み鳴らし、食物などめいめいに叺(かます)に入れて背負い、長柄の鎌・鳶の嘴・太き枝を振り立て」て宮古に入っている。
宮古では代官所役人が厳重な警戒にあたったが、一揆は本町の酒屋、若狭屋徳兵衛宅に押し入り、酒樽のタガを切り家具を打壊すなんどの乱暴を働いている。11月24日、25日には宮古と鍬ヶ崎に分かれて泊り、26日には磯鶏、高浜、金浜の百姓も加わり、総勢5、6千人にも達している。この日は津軽石に宿泊し、盛合家からは酒が振舞われている。翌日には山田に達するまでに1万人ほどに膨れ上がり、遠野に着いた時には12000人もの大群集となっていた。
16000人が仙台藩領域に到達・最大規模だった嘉永の一揆
南部藩は弘化の一揆の公約を実行しないばかりか、種々の名目で、税金、御用金を増加してまったく省みなかった。その暴政に対し、嘉永6年(1853)5月、またまた野田通りから一揆が発生した。
この時は沿岸には鰯の大群が押し寄せ大漁で賑わっていたが、藩ではこれにも法外に高い税金をかけたため、鰯を捕れば捕るほど損になった。この非情な状態では、土地に永住することは出来ないと、この一揆が計画されたものでもある。
この時のリーダーは弘化の一揆で弥五兵衛のもとで活躍した田野畑の畠山太助だった。本隊、先手組には、太助の考案による「困る」の意味を表現した「小○」と大書きした幟を先頭に、再び村々を巻き込みながら南下して行った。
封建社会終焉と近代社会への道
嘉永6年(1853)5月29日、宮古に入った一揆勢はすでに5、6千人に膨れ上がっていた。常安寺坂から横町に入り、東屋長七は金銭を与え酒を飲ませて難を逃れたが、宮古代官所下役人・刈屋勝兵衛の屋敷に押し寄せた時には、屋敷から蔵の中まで打壊され足の踏み場もないような状態であった。宮古に一泊し津軽石を通りかかった時には、盛合孫八家では酒や握り飯を振舞ったと伝えられている。
このように一揆勢が釜石に到着した時には16000人にふくれあがる最大規模の全藩一揆となって、藩境を超えて仙台藩領の気仙郡唐丹村(釜石市)に入った。この一揆は、盛岡藩主の更迭と藩政改革を要求、それがかなわない場合は三閉伊の幕領または仙台藩領化を願い出たものだった。この時も処分者を出さず、藩首脳の交代と要求項目49カ条のうち39カ条を受け入れさせることに成功した。
この時の首謀者であった太助は、一揆後も借金のため苦しみ、塩たきなどして働いたが返金できなかった。明治6年新政府の検地抗議の疑いで捕まり、宿預かりの盛岡の厩で自殺した。