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宮古下閉伊の一揆・騒動

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目次

岩泉袰綿一揆

宮古代官所で願い叶わず遠野へ直訴。首謀者を藤原の刑場で斬首
岩泉村小川筋の穴沢村、門村、袰綿村の三村の中で袰綿村は他村に比べ収穫率が低いのに租税が高く農民は困窮していた。袰綿村は袰綿忠左衛門の知行地で凶作の度に農民らは袰綿氏に政策改善を懇願したが「善処スル」と返答するばかりで、逆に課税率が上がるという結果になっていた。文政4年(1821)そんな袰綿氏の悪政に対し農民57人は強訴を決意、5月4日宮古代官所へ訴えた。代官所では代表3人を残し他は帰るよう申しつけた。しかし、農民達は一端は従ったもののすぐに戻り、3人を連れてその足で遠野代官所へ訴えた。
強訴を終えて帰郷すると宮古代官所から代表を引き渡せと催促されたので、肝入の本右衛門(品右衛門とも記載される)、検断の清兵衛、顧問の安右衛門の3名が宮古代官所へ向かった。しかし、途中宿泊した皆の川で安右衛門の義弟が追いつき安右衛門を強引に連れ戻した。残った2名は宮古代官所へ出頭、入牢となった。
同年10月27日、本右衛門、清兵衛の2名は藤原の刑場で強訴の罪で処刑された。一説によると遺体は本右衛門の娘が藤原の刑場から盗み袰綿村へ持ち帰ったとされる。この強訴で袰綿氏の知行地は没収され藩直轄の御蔵地となり、即決で処刑した宮古代官所役人らも失脚した。
首謀者・二名斬首で一揆、終息。農神として祀られる
代表として強訴の罪で斬首された本右衛門と清兵衛は袰綿村洞岩寺で村人の手により手厚く葬られ後に御農神として祀られた。この神社は義民を奉っているためか御神体として2体の仏像が奉納されている。この仏像の制作年代や詳しい経緯は不明だが、地区では古くから斬首された義民を偲んで「首切り観音」と呼んで信仰してきた。社殿内部には  身はたとえ
 宮古藤原消えるとも
 後の世までも
 名はかんばしく
の辞世の句が掲げられている。この句は前半を本右衛門が、後半を清兵衛が詠んだと伝えられている。
神社は広々とした畑の真ん中のこんもりとした立木の中にあり、赤い鳥居と山の神の社がある。鞘堂前には斬首事件から3年後の文政7年(1824)に奉納された鰐口が現在も社殿額の前に吊り下げられている。例大祭は地区民が集まり毎年5月3日に行われる。
袰綿一揆の年号と農神御神体について
今回参考資料として使った小島俊一著『宮古下閉伊秘話』では袰綿一揆を文化5年としているが宮古市史年表には文政4年で掲載され年代的には13年の開きがある。この時代は文化文政年間としてひと括りされる年代ではあるが一揆の年代を検証する上では大切な部分だ。今回は「宮古市史四」を参照に編集された文政4年の説を使って記事を掲載している。
袰綿の首切り観音の御神体の木像は長年地域で斬首された2名を観音に見立てて信仰しているが、本誌の見立てでは右が頭に髷を結い智拳印を結んだ金剛界大日如来、左が五智宝冠を載せ左に宝珠、右に剣を持った虚空蔵菩薩と考えられる(剣は紛失)ことを付け加えておく。

宮古長沢一揆

知行地が複雑に入り組んだ長沢。一揆の首謀者となった元家臣、内舘元右衛門
文政9年(1826)宮古長沢村・四戸甚之丞の知行地から一揆が勃発した。四戸氏は400石を領する南部藩の上級武士で、閉伊川筋に約150石の知行地を持っていた。この頃の長沢村は四戸、楢山などの領地が複雑に入り組み、それぞれ年貢率が違っていたため隣り合った田で年貢の差が発生し農民の不満は蓄積するばかりだった。
一揆は四戸氏の領地替えを訴えたもので首謀者として担ぎ上げられたのは北川目の農家に生まれ、因果なことに四戸氏の勘定役として召し抱えられた経験のある元右衛門だった。元右衛門は四戸氏の悪政をひとつひとつ書面に記し宮古代官所へ訴え出たが、弱腰の宮古代官所でラチがあかない。農民らは直接盛岡へ直訴しようと文政9年6月長沢河原に119人の農民たちが決起した。
元右衛門ら一揆代表は盛岡から駆けつけた役人たちと討議し、四戸氏の知行地取り上げと以後藩直轄管理、10年間の年貢免除という解決を得た。しかし、直訴は御法度のため首謀者・元右衛門は投獄され後の文政10年(1827)6月9日宮古藤原の刑場で斬首となった。農民たちは遺体を持ち帰り首は神倉沢、胴は北川目の生家に埋葬し、後に神倉沢に元右衛門を祀って御農神「長元神社」として崇めた。
幕末明治の漢詩人山崎鯢山、元右衛門を讃える
明治になって御農神元右衛門顕彰石碑運動が起こった。碑文は津軽石の生んだ幕末明治の詩人・山崎鯢山に依頼、晩年盛岡に住んでいた鯢山は快諾し、一遍の詩を添えて明治27年(1894)に撰文を送ってきたという。結果的にこの碑は建立には至らなかったが、鯨山の没年は明治29年(1896)だから、この作品は鯨山73歳の晩年の価値ある文章であったといえよう。添えられた詩は次の通り

出典:岩手県沿岸史談会・史潮8号より

諫(いさ)むれども行われず
猶是 忠臣(なおこれちゅうしん)
暴斂(ぼうかん)して止まず
民怨み 天怒る
首謀して強訴(ごうそ)す 罪を我が身に委ね 志望(しぼう)斯(これ)に達す
又是(またこれ)仁人(じんじん)なり
枯草(こそう)忽ち(たちまち)活き 屈虫(くっちゅう)始めて伸ぶ
噫(ああ)君死せず
祭りて以て(もって)神と為(なす) 
神倉(かくら)の沢 藻頻(そうひん・中国の偉人と思われる)絶えず
報徳誰か遺(のこ)さん 千古赫々(せんこかくかく)として
磨(ま)してうすらがす

 明治甲午(明治27年きのえうま)
 鯨山 山崎吉謙(きっけん)撰出

最終行「うすらがす」は原文は漢字表記ですが常用漢字ではないのでひらがな表記です

山崎鯨山は本名を吉謙(きっけん)と称し文政5年(1822)津軽石に生まれた。江戸や上方で遊学し安政6年(1859)南部藩の「作人館」道場の教官となる。維新後「集義塾」という私塾を開き弟子の教育にあたった。

岩泉中里一揆

三閉伊で最も古い記録に残る一揆。三人の義民を顕彰する縄縛り観音
弘化一揆のリーダー田野畑の弥五兵衛が住む切牛村から数里しか離れていない岩泉中里から一揆の狼煙が上がった。時は文化10年(1813)で弘化4年(1847)の三閉伊一揆から58年前の出来事だった。
この年は霧雨が続く冷夏となり凶作、宮古では大火があり159戸が焼失、翌年の文化11年も天候不順で凶作の連続となった。そんな年に野田通り中里村の農民が、領主の重税に対して決起、遠野代官所に訴え出て、その足で南部藩へ直訴した。一揆の首謀者は中里村の肝入・斉太(才太とも書く)を首領とした、徳右衛門、芦ノ沢の万右衛門の3名だった。なお万右衛門は若干18歳の青年で、徳右衛門は病気を隠しての一揆参加だった。
中里村を知行地として統治していたのは南部家との関係が深い中里治右衛門であったが、藩では中里治右衛門から知行地を没収し藩直轄の御蔵地とし年貢は農民の考え通り出納できるよう「新蔵」を建てることになり一揆は成功し終結した。しかし、強訴は重罪とされ首謀者3名はそれぞれ津軽牛滝の網場に流罪となった。斉太は文化13年(1816)御赦免となり中里村へ戻ったが数日後に死去、村を救った功徳から「救郷院大安道寿居士」の戒名で中里村正徳寺に埋葬された。
29年後の天保13年(1842)、村人たちは3人の義民を供養するため正徳寺境内に顕彰供養の観音座像を建立した。この観音はその後「縄縛り観音」と呼ばれるようになり、縄を結んで願をかけ、叶ったら解くという信仰が広まった。しかし昭和36年5月の三陸フェーン大火で正徳寺は全焼し縄縛り観音も灼熱に晒され数年後の風雨で崩れ落ちてしまい現在に至る。

豊間根新田騒動

連判血証文で御蔵地払い下げを阻止。盛岡城下で籠を止めて直訴
江戸末期、財政が苦しかった南部藩では農地開墾の新田開発を推奨していた。新たに作られた農地は藩直轄の御蔵地、藩士に与える知行地としていた。寛政元年(1741)南部藩はさらなる財政困窮により新田を希望者に対し金銭で払い下げるという通知を発布した。ただし払い下げ対象は士族のみとし、その土地の旧家あるいは郷士に限った。
当時の豊間根村は約400石の御蔵地だったが、この一部を石峠の旧家安倍家に払い下げることになった。農民達にとって役所の都合で耕してきた土地が検知、売却され、新たな所有者の統治に従うことになるわけだから寝耳に水であった。
農民達は売り渡し反対の連判証文を作りこれを宮古代官所へ提出した。しかし、取り次ぎ願いも無視され代表者ら5人は証文を持って大迫から盛岡に入り盛岡城下で御用役・桂源五左衛門の籠を止めて「今まで通りに御蔵地として存続させてほしい」と豊間根農民の窮状を訴えた。後日その直訴は吟味の対象となったが、宮古代官所を通さずの直訴は違反とされ代表者一行は宮古へ戻り投獄の身となった。入牢から152日目となった寛保2年(1742)12月28日、桂源五左衛門からの書面が届き、石峠村安倍募(つのる)申し出の知行願い取り止めと、豊間根村農民代表5人の入牢御免の結果となった。安倍氏には代替え地として花巻に知行地 が与えられ、豊間根新田騒動は終息した。

年貢徴収の役人拙宅を急襲

村人の身代わりとして捕縛された、義民・平治
享和から文化2年の頃(1801~1806)の頃、不漁と凶作が続いた山田村に仙台領の商人が船で山田に米を運び格安で村人に施し大変喜ばれていたという。しかし他領の船による商品取引を南部藩では不服とし、これを取り締まるために役人を派遣した。役人は山田村の役銭等を収める御蔵地(現公民館付近)にあった顔役の家に駐在し他領船舶の取引を監視した。
これに対し役人駐在のため食べ物を絶たれた村人数十名が闇夜に乗じて役人達を強襲、殴る蹴るの暴行に書類などを荒らして逃走した。この暴徒による所行を南部藩は厳しく取り締まり、顔役、検番らに命じて犯人を差し出すよう厳しく申し立てた。しかし村人は知らぬ存ぜぬで一向に犯人は見つからなかった。そこで顔役たちは金を払って身代わりを募ったところ、流れ者の平治という66歳の男が村人の世話になった恩返しにと犯人役を請け負った。平治は仙台領牡鹿の塩商人とも髪結床とも伝えられるが詳しい経緯や素性は不明だ。村人の難儀に無実の罪を背負った平治に対し騒動の3年後(文化2年)に山田龍昌寺に平治の墓が供養建立されたという。

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