Miyape ban 01.jpg

一揆指導者の最後

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

そして明治へ。強訴する時代は終わった。しかし、三閉伊の状況は変わらない

幕府から明治政府に変わっても三閉伊は稲作北限地帯であり冷害や干ばつによる凶作地帯であるのに変わりはなかった。そんな明治6年、田野畑村小峠にホラ貝の音が鳴り響いた。検地にやってくる役人たちの経費を農民が負担するのはおかしいのではないかという意見だった。

嘉永一揆の指導者・畠山多助の最後

三閉伊一揆も終息し元号も明治となり新しい支配制度が始まった。そんな明治6年(1873)4月、田野畑村小峠(標高400メートル)で一揆の象徴でもある貝吹(合図や獣脅しに使う木製のホラ貝)をする者があった。貝を吹いていたのは田野畑村の佐藤繁蔵、佐藤忠吉の2人だった。彼らは明治新政府が土地検地のため役人を派遣する諸経費負担を地元に押しつけるのは耐えられない。しかも幕府から明治政府へとなったとて役銭、上納金は前と変わらないどころか以前より増え、そして新たに検地するのは不服であると訴えるため集まろうではないか。という意味を込めて峠で貝を吹いた。しかし集まる者は少なくこれといった騒動にならずに終わった。
しかし、このことは通報され盛岡県から役人がやってきて佐藤繁蔵、佐藤忠吉、加えてこれを裏から指導していたのではないかという疑いで、嘉永一揆の指導者・畠山多助が連行された。多助は一揆終息後も南部藩の密偵により監視され、要注意人物としてマークされていたのである。
3人は盛岡油町の宿に軟禁され、毎日役人の取り調べや時には拷問による自白を強要された。 この取り調べに若い佐藤繁蔵と佐藤忠吉は耐えていたが、もはや初老となった多助は耐えきれず失神することもあったという。軟禁されて1ヶ月も経った頃、多助は田野畑村から同行していた長男・円治に「剃刀を買ってこい」と命じたが、自殺を悟った円治は剃刀を買わずに戻ると多助は激怒して円治に罵声を浴びせたという。その晩、多助は宿の裏の厩で死んでいた。
これを見た宿の主は江戸前期の下総の国で一揆代表として将軍へ直訴し死罪となった佐倉宗五郎のような人だと感銘し、自家の菩提寺名須川町・本誓寺(ほんせいじ)に小さな墓碑を建て葬った。碑には「釋祐洞 野田通田野畑村 畠山多助 五十八才」と刻まれている。円治は多助の遺髪を持ち帰り自宅の墓所に葬った。多助の自殺に驚いた盛岡県は直ちに佐藤繁蔵、佐藤忠吉を釈放した。

関連事項

表示
個人用ツール