盛合聰
- もりあいさとし【分類・詩人・政治家】
- 大正~平成:大正9年~平成5年(1907~1993)
岩手文芸界の一断面を担った詩人政治家
岩手県議会議員として20年間県政に参画しながらも、日本近代文学会員、日本詩人クラブ会員、国際啄木会会員など数々の活動を行い、岩手県文芸史の一断面を担ってきた文化人であった盛合聰は大正9年(1920)旧津軽石村に生まれた。
10人兄弟の6男で、兄・麟児(後に、要之助を襲名)が駒井雅三らと文学結社「未耕社」を結成して活動していたことなどから文学に関心を持ちはじめ、庭の大銀杏のそばの土蔵にはいって本ばかり読んでいた。
昭和8年に漢学者で医師だった伯父の進めで医師を志すが思わぬ大患にかかり中途で挫折。後遺症の左足の障害は終生治らなかった。
昭和15年、岩手大学の前身である岩手師範学校を卒業し、1年間、岩泉町の小川小学校で教師を務めた。盛岡の学生時代に鵜川五郎、鷹觜直治、佐藤勘助らと左京文学会を結成し、『肋』『ながれ』『左京』などを発刊。さらに岩手日報文芸欄を主宰していた森荘巳池(そういち)氏に師事。この頃、東京の日本詩壇、詩人界の同人となった。
昭和16年に太平洋戦争が勃発すると海軍兵士として従軍。出征の前夜、北海道時代の石川啄木の友人だった小国露堂から「死ぬなよ」との壮行の励ましを受けた。昭和30年、中央公論文壇アンデパンダンに昭和9年に入選し夭折した宮古市出身、伊東祐二の「葱の花と馬」を中央公論社と交渉し、自らが出版元となって復刻させた。その後、田中茂、中前田花千らと宮古ペンクラブを結成、「東門」「東門クラブ」を発刊。事業の一つとして消滅寸前だった「鍬ヶ崎甚句」を発掘し、録音保存した。
昭和38年から58年まで岩手県議会議員として県政に尽力。藍綬褒章を受章した。昭和44年には引き取り手がなく取壊し寸前だった啄木ゆかりの図書庫を日本赤十字社より無償払い下げを受け、市内山口の慈眼寺境内に移築し「寄生木記念館」として開館。その事業に尽力した。啄木に関しては佐藤歌子氏らと宮古啄木会を昭和54年に結成し、旧宮古測候所台地に啄木文学碑を建立。碑面に宮古寄港の日の[啄木日記全文]を彫った。
この間、「独楽」「天の祭」「ろまん海峡」「霧の河口」「午後の独楽」などの詩集、詩文集を発刊。「午後の独楽」の「三行詩には希に見る深さと鮮やかさがある。この擬集力は本物と思う」と森荘巳池氏は評価した。これらの出版の傍ら[岩手東海新聞]、[岩手日報]、[盛岡タイムス]、[河北新報]などに随筆、コラム、時評などを精力的に連載。さらに平成3年までに「月下鬼灯」「明日の鈴」「北辺の記者―評伝・小国露堂」「啄木と小国露堂」「無限抱擁」などを出版してきた。
これら詩集や著書は若き日の記念譜であり、多くの友人たちに対する篤実の愛情をうたっているものが多く、詩人としての人間味が溢れている。平成5年(1993)8月5日肺ガンのため亡くなった。74歳だった。