宮古測候所
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現漁協ビルの高台にあった八角形の宮古測候所
昔の宮古の測候所と言えばモダンな洋風な建物が懐古される。その面影はまだ多くの市民の脳裏に残るところだが、その記憶も失われつつある。
宮古測候所は、明治15年に全国8ヵ所(鹿児島、宮崎、下関、松江、沼津、浜松、秋田)のひとつとして定められた。同年9月に内務省地理局東京気象台員岡本保佐が岩手県と協議。その後岩手県属西山高久と来宮して東、中、北閉伊郡長上田重温と打合せを行い、さらに宮古村と鍬ヶ崎村が測候所を建設して内務省に献納することを願い出た。これが翌16年に受理され、1月から鍬ヶ崎村戸長の監督のもとに工事が始められ、2月下旬には早くも落成し、3月1日に内務省地理局宮古測候所として現漁協ビル(旧鏡岩砲台場、陸軍省用地)の位置に開所した。測候所では早速その日の6時には第1回気象電報を東京気象台宛に発信している。
当時の内務省地理局測量課長は、後の中央気象台初代台長となった荒井郁之助だった。この宮古の開所は、彼の助力があったと伝えられている。荒井郁之助とは、明治維新の頃、徳川幕府の海軍総裁榎本武揚と行動を共にし新政府と戦った人物。明治2年3月25日のわが国初の近代洋式海戦と言われる宮古湾での「宮古海戦」にも参戦。総司令官として甲賀源吾や土方歳三らと共に、新政府(官軍)の軍艦「甲鉄」を奪う奇襲攻撃を宮古湾で行ったが、武運つたなく敗れてしまった。
その荒井ら幕軍は五稜郭で降伏し投獄されるが、出獄後、新政府は彼らの才能を必要とし、荒井は札幌農学校を経て気象事業に仕えた。ちなみに荒井は宮古港海戦前の天候を「20日黎明・風・漸く止みて、波高し」と記していた。