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駒井雅三

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  • こまいまさぞう【分類・歌人】
  • 明治~昭和:明治40年~昭和60年(1907~1985)

目次

陸中海岸国立公園指定運動の第一人者

駒井雅三は明治40年宮古町新町の酢醸造元に生まれた。宮古男子尋常小学校、高等科第一学年、岩手県立水産学校を卒業。水産学校在学中に有志らともに少年文学誌『未耕』を発刊、これが後の文学誌『未耕』の前身であり、文学結社「未耕社」へとつながり、県内に同人を求め同人誌『骨』『薔薇門』などを刊行してゆく。昭和2年駒井写真研究所を設立し龍泉洞探険、三陸大津波取材などで報道カメラマンとして地位を築く。戦後は宮古市観光協会設立、陸中海岸国立公園指定運動を展開、三陸の自然と風景を撮影し数々の賞を受賞した。晩年は地方新聞『陸中タイムス』をはじめ本誌『みやこわが町』の社主として地方文化向上に貢献。昭和60年79歳で他界。

ガリ版の少年文学誌『未耕』から文学結社「未耕社」創立へ

駒井雅三は明治40年(1907)宮古市新町の酢屋を経営していた、父彌兵衛、母カツの間に、姉1人、弟妹7人の中の長男として生まれた。大正10年(1921)3月、宮古男子尋常高等小学校、高等科第一学年終了、同13年(1924)岩手県立水産学校を卒業。家業である酢醸造業についた。当時醸造販売していたのは「みづほ酢」という製品で一般小売りの他、鍬ヶ崎の料理屋、寿司屋などの飲食店向けに製造出荷されていたという。
水産学校在学中に町内の有志らと少年文学誌『未耕』をガリ版刷りで発刊、昭和元年には菊池三和氏らと学生時代に手作りした文学誌『未耕』の延長でもある文学結社『未耕社』を設立、県内に同人を求め同人誌『骨』を編集、発刊。晩年の彫刻家・吉川保正氏らも原稿を寄せるなど同5年には歌誌『薔薇門』発行し文学活動へ傾斜してゆく。

駒井写真研究所設立。ニュースカメラマンとして活動する

昭和2年、駒井写真研究所を開設すると同時に当時地方では珍しかった報道写真家として活動を開始。同7年には岩泉町の新聞記者佐々木晃氏とともに岩泉鍾乳洞「湧口(わっくち・現龍泉洞)」を探険その全貌を報道写真として発表、翌年(昭和8年)には三陸大津波の大惨事を取材、ニュースカメラマンとして当地方においての地位を築く。  昭和10年、戦時色が濃くなる時世のなか、駒井雅三が生涯通して師と仰いだ、啄木の友人であり支援者、そして書家であった小田島孤舟氏の二女けい子と結婚している。同16年日本報道写真連盟支部長等を歴任しながら、宮古市翼賛壮年団を結成、同時に宮古市翼壮松根油株式会社を設立、航空機の燃料となる松根油を生産している。また、同時期、弟雄助とともに東京田無市において航空機用の軽合金部品生産をする日東軽合金株式会社を設立し軍需産業の一翼を担った。  戦後の昭和23年宮古市観光協会設立、三陸海岸国立公園指定運動を展開、三陸海岸の風景、風物等の調査、資料集めのため撮影行脚する。翌年には岩手県観光連盟理事に就任、毎日新聞社の観光百選に「三陸フィヨルド」として立候補、沿岸の部2位を取得。またこの頃厚生省主催の新日本風景展において写真5点が特選を受賞。この頃の駒井雅三は取り憑かれたかのように陸中の海を撮影し、自腹に手弁当で東京に出て国立公園関係の諸官庁や業界を歩き回り、自らが愛した陸中の海の素晴らしさを多くの人に訴え続けた。この仕事は誰に頼まれたものでもなく、故郷に錦を着せたいというふるさと愛であり、自分自身への壮大な挑戦であったかも知れない。

国立公園指定までの道程を振り返る

陸中海岸が全国19番目の国立公園として誕生したのは昭和30年5月2日。現在は岩手県久慈市から宮城県気仙沼市に至る180キロにも及ぶ太平洋に面した地域が指定されている。
北部の豪壮な断崖美と南部の繊細な海触景観は動と静の対象を織り成す我が国を代表する海洋公園で、毎年多くの観光客を集めている。しかし、この陸中海岸が国立公園に指定されるまでには、戦前からの先人たちの長い年月の指定運動や幾多の困難があった。
そもそも何故、国立公園は誕生したのか。運動の発端は何であったのだろうか。その運動の始まりは昭和8年まで溯らなければならない。昭和8年と言えば三陸大津波のあった年で、その被害は沿岸各地の町を壊滅的に破壊し、言語に絶するものであった。その被害調査のため宮古に学術調査団がやって来た。その調査団のほとんどは国立公園審議会委員も兼任していた。
日本の国立公園法は昭和6年に制定され、昭和9年から施行された。当時の宮古町長松井一男は被害地を案内した後、津波調査とは別に浄土ヶ浜を案内し、ここを「国立公園にしてほしい」と陳情した。しかし、彼らからは「浄土ヶ浜は小さすぎる。国立公園とはこういうものではない。町の公園にしなさい」と言われ、陳情は受け入れられなかった。
 その時、この様子を取材していた一人のカメラマンがいた。後に指定運動の第一人者となる駒井雅三である。駒井は「ならばこの沿岸一体で行こう」と決心し、自ら運動の旗振り役となった。

指定運動本格的に始まる。審議委員が調査開始

昭和27年7月5日、国立公園審議会長下村海南博士一行が来宮。三陸の海岸を3日間にわたって調査。その結果、10月に国立公園候補地となるべく「自然公園」に指定された。
昭和29年6月15日、田村剛博士視察団一行来宮。厚生省石神国園計画課長らと共に、大船渡、釜石を経て、浄土ヶ浜を中心に18日までに、重茂、田老、小本、田野畑海岸を視察。  同年8月4日、委員辻村太郎博士が来宮。当時の中屋市長、小林市議会議長らと船で宮古湾から崎山海岸を視察。翌5日には普代海岸など視察した。辻村博士は「学術的にも貴重な海岸」と絶賛。同じく委員吉阪教授は8日に釜石から船で、田老海岸まで視察した。この時、「三陸海岸」の名称より「陸中海岸」が適切との意見を出した。

悲願の国立公園が誕生

同29年8月23日の国立公園審議会ではこれを受けて「陸中海岸」と名称を改め、国立公園として内定した。内定とは言え、かねて待望していた市民、関係者の努力がここに花開いた。
8月27日、宮古市では一般市民、小中学生生徒による祝賀旗行列が行われ、宮古小学校では祝賀会、夜は提灯行列と花火打ち上げで内定を祝った。同年10月16日から、厚生省の調査団一行が釜石、船越、山田を経て来宮、宮古から船で田老以北の調査を行った。調査団は「指定のために障害になることはないので、年内も可能だが、翌春とするのがよかろう」と指定を確実にした。
昭和30年4月1日、宮古市は周辺4ヶ村と合併し、新宮古市としの史市を飾った。それから一ヵ月後の5月2日、陸中海岸が国立公園として正式に厚生省の指定となり、その日、盛大な記念式典が浄土ヶ浜で行われた。

ローカル新聞からタウン誌発行、執筆活動へ。晩年の駒井雅三

国立公園指定へ向けて奔走した駒井雅三の努力と情熱は官民を巻き込み陸中海岸国立公園の誕生で悲願は達成する。そして駒井雅三は新たな文化活動と夢に向かって歩み出すことになる。そして昭和30年、陸中海岸国立公園指定の功労者として郷土の有志らの手によって磯鶏陣屋崎に駒井雅三の歌碑が建立された。
国立公園指定運動が実った昭和30年初頭、当面の目標を達成した駒井雅三は新たな事業を展開する模索をはじめている。最初に手がけたのは中居善助氏を中心に株主を募り、洋画専門に上映する映画館「国際劇場」の開館だった。そして映画館開館に伴い上映作品を紹介宣伝する「宮古映画新聞」の創刊であった。
新聞発行は後に駒井雅三が社主として発刊する陸中タイムス本誌「月刊タウン誌みやこわが町」の創刊につながり、同時に自らが経営することになる株式会社文化印刷の創立のきっかけともなってゆく。反面、新たな道を模索しはじめた駒井雅三は昭和30年、裏千家茶の師匠だった妹駒井良子の死、34年には肺疾患で闘病生活を送っていた妻けい子の死に直面するなど、駒井雅三にとって激動の昭和30年前半でもあった。
昭和35年、株式会社・文化印刷を創立。和枝夫人と再婚後、昭和42年、日刊新聞として「陸中タイムス」創刊、45年アイオン台風からの復興した宮古を紹介する写真集「のびゆく宮古」発刊、同年岩手国体宮古会場にお成りの皇太子殿下・美智子妃殿下を取材し「陸中の旅」発刊、52年タウン誌「みやこわが町」創刊、53年東京経済大学助教授・田村紀雄氏らと図り、全国に先駆けて「第1回全国タウン誌会議」を宮古で主催しその実行委員長となる。
晩年、72歳を迎えた駒井雅三は、昭和54年初の歌集「ふるさとの海」を出版、56年小説「岩水時代」、57年には「鈴木善幸総理お国入り」、58年には第2歌集「ふるさとの山」を出版。しかし、翌年、痛風が悪化し腎不全のため入院。
自宅静養のため退院後、昭和60年5月、陸中海岸国立公園30周年にあたり、国立公園協会より功労者として表彰されたが、翌月病状が悪化し再入院、6月5日、県立宮古病院にて病没。享年79歳だった。

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