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小国露堂

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  • おぐにろどう【分類・新聞記者】
  • 明治~昭和:明治10年~昭和27年(1877~1952)

反骨の新聞人。宮古地方新聞の祖

宮古地方の最初の新聞を発行し、明治の終わり頃から昭和の戦時体制まで新聞人として活躍した人物。
露堂は明治10(1877)年10月12日、旧宮古町横町の田代家の長男として生まれた。小さい頃から新聞記者になるのが夢で、成人となってからは北海道、宮古での新聞人として活躍した。21歳で結婚した露堂はその7年後の明治38(1905)年に単身、北海道に渡り最初は「函館新聞社」に入社した。
のち札幌へと向かい、今度は「北門新報」の政治記者となった。そこで露堂は函館の大火で職を失い校閲記者として入社してきた石川啄木と出会う。知り合いが露堂に履歴書を持ち込んできたのだ。この出会いで、啄木は露堂から社会主義の傾斜に大きな影響を受け半ば社会主義開眼に似た境地にまで達したとも言う。
露堂と啄木はその後、新しく発刊される「小樽日報」へと鞍替えする。啄木の入社を世話した露堂が啄木を誘ったもので、それは啄木が北門新報に入社して2週間目のことだったと言う。
やがて啄木は「釧路新聞」へ移るが、露堂も啄木の後を追うように釧路新聞へ。さらに露堂は「室蘭毎日新聞」や「東北海道」の創刊に参加するなど、北辺の記者として目まぐるしい遍歴を歩んだ。
明治44(1911)年、露堂は一旦宮古に帰り、9月3日「宮古新聞」を発行する。新聞は四六版、四つ折8ページ。月3回発行。大正から昭和にかけて地方紙としてならし、郡下青年弁論大会も主催している。また、宮古新聞は昭和3年にも復刊されている。これは何らかの理由で再び北海道に渡った露堂が再度帰郷し、再発刊したものとみられる。露堂51歳の時である。しかし、一方で大正7年刊の「都桑案内」には小国露堂が「陸東新聞」を明治41年に創刊、その後幾多の転変を経て旬刊「宮古時報」の発刊を見る、とあるがこれについて詳細は不明である。
宮古新聞は、太平洋戦争が始まって20日後の、昭和16(1941)年12月28日、戦時体制の1県1紙の強化によって終刊となる。最終号は第3831号だった。
露堂は時世に抵抗する反権力の新聞人で、その周りにはのちの宮古の地方紙を担う人々が終結した。反権力、反金権の精神を受け継いだ彼らは後に宮古の様々な新聞を発刊していくことになる。露堂が亡くなったのは昭和27(1952)年2月4日、74歳だった。

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