宮古の医療
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藩政時代の宮古下閉伊の医師
藩政時代の宮古下閉伊に医療関係の資料は極めて少なく、病気や怪我に対してどのような治療や処方がされていたかはわからない。そんな中で給人(士分)が死亡した際、家族からの跡目相続願いが出された。これは代官が本藩に申請するものだが書面には医師の死亡証明を必要としたという。江戸末期の天保12年(1842)頃の宮古代官所記録には代官所御役医として、佐々木成美、岡本庄作、小枝指良右ェ門の3名の名がある。また、文政の頃東北を旅した江戸の浄瑠璃芸人・富本繁太夫が残した道中日記によると鍬ヶ崎で持病の横根(梅毒)が痛み出し宮古町の藤島柳的(りゅうてき)という医師の治療を受け、処方箋により症状が軽減したことが記されている。
幕末明治の宮古の医師
藩政時代の医者は、特権階級のためだけに医術を使う特別な存在であり、その考え方は明治期になってもなかなか変わらなかった。また、庶民にとって病気を患ったからといってすぐに医者にかかるという行為は金銭的にも負担が大きく、医者はそれこそ最終手段であった。そのため庶民にとっての病気対策は江戸期から脈々と続いた富山の置き薬や針灸にはじまり、民間薬草学、医術ではなく信仰によって精神的部分をカバーするイタコ、山伏、神憑き、神子などに頼るのがごく一般的であった。従って医者と病院が庶民生活のレベルまで降下する明治末期頃まで、庶民にとって西洋医術と神秘的呪(まじな)いはほぼ同等のレベルであり、それらは一部では戦前戦後あたりまでニーズがあったと思われる。藩政時代から明治初期にかけての宮古、鍬ヶ崎の医療において名が残っている医師は次の通りだ。
- 宮古町
- 佐々木元卓(文政6年~明治19年)
- 佐々木元俊(天保3年~明治5年)
- 佐々木玄俊(不明)
- 刈屋元逸(げんいつ・不明)
- 久保田元鳳(不明)
- 相田元硯(げんけん不明)
- 鍬ヶ崎町
- 佐々木春庵(明治)
- 欠下友造(友甫)(明治23年)
- 道又元兆(文政7年~明治38年)
- 佐々木半十郎(明治初期~大正11年)
- 津軽石
- 山崎庸哉(ようさい・文久元年~大正5年)
- 山崎友仙(ゆうせん・明治15年)
- 金浜
- 浦野立三(天保12年~大正5年)
宮古初の病院のこと
明治9年(1876)、浦鍬ヶ崎に病院の設置認可申請が出されている。これによると医師らは次の通り。
院長 梁田 中庵(やなだちゅうあん)
医師 松本 宇宙(まつもとうちゅう)
同 伊能 守雄(いのうもりお)
同 欠下 友甫(かけしたともすけ)
同道又 元兆(みちまたげんちょう)
この病院は隔離病舎を併設しており当初「済生病院」と呼ばれ後に「明治病院」と改称された。場所は現在の鍬ヶ崎仲町「はしば」付近であったとされる。この病院がどのように運営されたのかは一切不明だが、宮古、鍬ヶ崎に病院が設置されたのはこれが初であろうと考えられる。
その頃は、大洪水、台風などの被害が続き貧弱な衛生管理下で、伝染病が流行した時代であり、病院の設置はこれら事象と関係が深いと考えられる。特に明治12年のコレラ大流行、翌年の250戸を焼いた鍬ヶ崎大火と大惨事が続き、明治14年に設置申請をした「東閉伊病院」は翌年の15年3月には早々に設置され、三陸沿岸のコレラ患者302名を収容し大いに活躍したと記録されている。
結局、当時の病院は行政や医師の都合ではなく、住民の要望が高まって設置されたと考えてよく、同時にこの現象は江戸時代の特定階級のみのために使われた医術が、庶民のレベルまで降下したことを物語る。その後、病院のニーズは高まり明治末期から大正を経て昭和の個人病院開業ラッシュへとつながってゆく。
下閉伊郡医師会設立総会議事録より・明治40年3月
佐々木半十郎が院長を勤めた鍬ヶ崎上町の佐々木医院の文書の中に明治40年に開催された、下閉伊郡医師会の設立総会議事録があった。これは明治15年頃のコレラ大流行に伴い設置の声が高まった「明治病院」「東閉伊病院」に従事する医師、それとは別に明治末期から個人開業していた医師らの連携を強めるために県令として都市に医師会を設置するよう制定されたもので、明治17年に結成された開業医組合が前身となり医会となり、のちに下閉伊医師会となったものだ。医師会設立を提唱したのは軍医、そして自由党政治家でもあった津軽石の盛合綏之(やすゆき)医師で、設立発起人代表を務めている。またこの設立総会に出席、欠席した医師と役人は別表の通りとなっている。
この総会ではまず、発起人・議長である盛合綏之が自らの起こした創案に基づいて会長、副会長を投票にて選出した結果、佐々木半十郎、加藤良之助両名が立会人となり、全20票のうち、18票を盛合綏之が取得し会長に就任、続いて副会長選出においては15票を取得し佐々木半十郎が就任している。以下選挙により役員が選出され、理事に関玄秀、加藤良之助、評議員に道又金吾、菅野孝七、三浦泰、関玄琢、浦野立三が選出されている。
- 出席医師
- 安倍長俊 木村宗益 大森永助 久保田平助 菅野孝七 佐々木半十郎 関 玄秀 相田元融
- 佐々木春庵 道又金吾 関 玄琢 加藤良之助 伊藤祐則 奥寺留太郎 高野晃造 盛合綏之
- 高橋慶次郎 押川公介 三浦 泰 浦野立三
- 安倍長俊 木村宗益 大森永助 久保田平助 菅野孝七 佐々木半十郎 関 玄秀 相田元融
- 欠席医師
- 山田 弘 内村昌伯 佐々城英信 片岡倉吉 朝日朝治 及川吉之進 下山千代吉 笠松立斉
- 山田 弘 内村昌伯 佐々城英信 片岡倉吉 朝日朝治 及川吉之進 下山千代吉 笠松立斉
- 出席した役人
- 岩手県技師 長谷川佐太郎
- 下閉伊郡長 三鬼鑑太郎
- 岩手県警部 浅利和三郎
- 下閉伊郡書記 伊東元助
下閉伊郡医師会第5回通常総会会議録より・大正13年4月
明治40年に設立総会が開かれた下閉伊郡医師会は、元号が変わり鍬ヶ崎町、宮古町合併後の大正13年に第5回通常総会を催している。この議事録も佐々木半十郎が医師を務めた佐々木医院の文書から発見された。これによると大正13年現在において下閉伊郡医師会のメンバーは渡邊清医師を会長に29名が在籍し、第5回通常総会には15名が参加している。
総会では前年度の活動報告と転出転入した医師会メンバーの報告が行われている。この年の最も大きな議題は前年の大正12年に設置したという「無料衛生相談所」に関しての報告と意見交換だ。衛生相談所は下閉伊郡衛生相談所と称して本郡医師会所属の開業医をもって組織され、公衆衛生に対して各自診療所に於いて無料で相談を受け対処指導するものとしている。総会では相談所であらかじめ来所者に対して行う詰問を単票に印刷しアンケートのように回答してもらうという案が決議され、その書式やサイズなどが検討されている。また、伝染病流行などの最悪の場合となった時の対処、日本赤十字岩手支部病院への応援依頼の件、決算報告、本年度から新会員となった医師の紹介などを行っている。
余談だが、通常総会終了後、学術談話会として、渡邊清、帯刀(たてわき)義男、佐々木庸夫、高見卯吉らによる『高圧電流(3300V)の電撃ニ因スル傷患者の治療例』『猫イラズ中毒ニ就イテ』『無子宮患者ノ二例』という勉強会が行われ、午後5時閉会となり、その後鍬ヶ崎長岡屋において懇親会が催されている。なお、大正13年に行われた第5回通常総会議事録には大正11年に没した佐々木半十郎の名はなく、半十郎の長男であり二代目佐々木医院院長となった佐々木庸夫の名が名簿にある。しかし、この数年後には佐々木庸夫も病没し、佐々木医院は医師会名簿から消え去ることになる。
ふえる新規開業医
明治中期になり医学は特定階級だけのものではなく庶民の域まで降下した。同時に医者は漢方医から最新西洋医学を身につけた専門医が第一線に立つようになった。当初の病院施設は郡立病院や伝染病の隔離病舎であったが、時代が下るにつれて医者による個人経営の「医院」が増えてゆく。大正時代は宮古町をはじめ周辺でも開業ラッシュとなり多くの医院が看板を掲げた。今回掲載した開業医はその中のほんの一部で、写真は後の昭和9年の『宮古港大観と郷土の名所旧蹟』(宮古日日新聞刊)によるものだ。また当時開業した場所は後の都市計画などにより町名や番地が変わっており現在場所を確定できる医院はごく一部のみだ。
- 大正3年、宮古町に宮古病院開業
明治40年、盛合綏之、関玄秀、加藤良之助らが協力し本町に創立した宮古病院(県立宮古病院とは無関係)だったが、数年でその経営は逼迫状態に陥り明治43年閉院となった。その後大正3年、渡邊清が病院施設一切を買い上げ新生の宮古病院としてスタートさせた。渡邊清は明治16年生まれで帝大医学科を経て学位を取得、その後大学病院で医員をしていた。内科、外科が専門であったが宮古病院には眼科専門医を置き看護婦養成にも尽力した。
- 大正4年、宮古町に平野医院開業
平野医院は大通に開業。院長は平野福蔵。秋田県出身。明治16年6月22日生まれ。明治44年仙台医専卒、山形市立病院共済館に奉職したのち宮古町に開業。町理髪業組合嘱託医、町料理屋組合嘱託医、医師会評議委員を歴任。
- 大正5年、田老村に佐々木医院開業
佐々木医院は田老村に開業。院長は佐々木義治。明治16年1月11日生まれ。明治36年陸軍看護長、44年豊間根尋常小学校校長。大正2年日本医学校卒。同4年東大眼科選科修了後、東京浅草にて1年間診療に従事したのち田老村に開業。
- 盛合医院
大正13年に開業した盛合医院は政治家であり軍医だった津軽石村の盛合綏之が医師を務めた病院だ。場所は現在の中央通り健康堂薬局の隣で、現在表は電気店となっているが、木造三階建ての病院の一部と入り口にある巨大な門柱は現在も残り、その建物が病院であった面影が残る。
- 宮古病院
宮古病院は明治末期に押川医学博士を招き盛合、加藤、関の3名の医師たちの手により開業した病院だったが、経営が行き詰まりいったん閉院していたものを、大正3年、渡邊清医師が土地建物家財全てを買い上げて新たな病院として開業した。場所は現在の本町佐藤銃砲店付近だった。
- 大正5年、宮古町に眼科工藤医院開業
院長は工藤保三。北海道出身。明治16年4月12日生まれ。明治43年千葉医専卒。東大眼科選科修了。のち河本博士に就き1年間眼科研究。北海道室蘭に開業したのち宮古町に開業。鉄道嘱託医歴任。
- 大正7年、宮古町に内児科佐々木医院開業
佐々木医院は大通に開業。院長は佐々木茂樹。明治42年金沢医専卒。宇都宮渡辺病院に2年間勤務。大正3年栃木県警察医、同7年栃木県金山病院長に転出。のち宮古町へ開業。山口村村医。医師会評議委員を歴任。
- 大正8年、重茂村に小川医院開業
院長は小川玄清。千葉県出身。明治33年試験合格。千葉県田町に開業。大正7年満州に開業。同地戦乱により引き揚げ、重茂村疎開、のち開業。
- 大正10年、宮古町に高山医院開業
高山医院は大通に開業。院長は高山正鞆(まさとも)。島根県出身。明治20年10月13日生まれ。大正4年新潟医専卒。同校池原内科教室にて研究。島根県鹿足(かのあし)郡畑追病院に副院長として在職。東京牛込区畑眼科にて眼科医担当。福島県南会津郡大宮村博愛病院院長を経て、北海道北見小清水診療所3年従事。のち宮古町に開業。
- 大正13年、宮古町に盛合医院開業
院長は津軽石村の盛合綏之。明治4年2月18日生まれ。同38年日露戦争に出征。翌年凱旋、私立宮古病院創設。同41年再び軍医として従軍、同43年辞任、満州慈恵病院に奉職。大正元年仙台に開業。のち宮古町片桁に開業。また、盛合綏之は明治末期から昭和初期に創刊した宮古初のローカル新聞「陸東新聞」を発行した小国露堂のスポンサーであり、新聞発行のための印刷所として築地通りに「東華印刷」を設立するなど、露堂の活動を大きくバックアップした。
宮古共済病院と隔離病舎
昭和11年5月、現在の和見町に産業組合立宮古共済病院が創立され、そこに併設されたのが伝染病患者を収容する木造平屋建ての隔離病舎だった。設立当時住民等からの反発もあったが、昭和11年頃の和見は辺り一面が田圃であり、共済病院施設と民家はかなり離れていたため大きな反対運動には至らなかった。まして当時腸チフスなどの伝染病が猛威をふるっており、下閉伊郡の町村にとって隔離病舎の設置は切実な願いでもあった。
当時としてこの地方的な医療機関の果たした役割は大きく、この病院設置を立案した人たちの功績は極めて大きい。昭和9年に産業組合立の病院設立代表として、熊谷善四郎を筆頭に藤島弥助、小笠原孝三、橋本徳太郎、三浦竹次郎、関口養隆、阿部登、菅原東助、岩田子々次郎、鈴木米定、中谷唯治(ただはる)、鈴木清五郎、野崎徳助、菊池安兵衛の各氏で、その計画を一般に知らしめるためのチラシには「下閉伊郡下の各産業組合の加入を奨め、一口金拾円とし、病院建築費その他設備費併せて、金八万五千円を見込む」と宣言された。また、診療費内容は別表の通りだった。
昭和10年7月に「有限責任購買利用組合宮古共済病院」として認可され翌11年5月に事業が展開された。開業当時の医療陣営は院長に外科の伊藤四郎、内科は佐藤栄、松田徳、小児科は柳橋満雄、耳鼻科は戸田正、眼科は吉村一郎、産婦人科は佐々木武雄という布陣だった。この顔ぶれは東北大学医学部の強力なバックアップが伺われ人々の期待も絶大なものだったという。しかし、昭和12年のシナ事変から国内は戦時体制になり、昭和16年の太平洋戦争に発展すると医師もあい次いで召集され、患者診療に大いに支障をきたした。その後、色々な経過を辿りながら戦後の昭和25年5月に県営となり、更に昭和34年には宮古共済病院は宮古地方病院と合併になり、現在の県立宮古病院へ至ることになる。
- 項目など 処置など 料金など
- 診療費
- 無 料
- 薬 価
- 水散薬丸薬一剤(一日分)弐拾銭 頓服薬七銭 外用薬400g拾銭 点眼薬10g拾銭 塗布薬10g拾銭
- 注射薬
- 皮下または筋肉弐拾銭以上 静脈注射 五拾銭以上
- 処置料
- ホータイ弐拾銭以上 外科処置弐拾銭以上 眼科処置弐拾銭以上 気胸参拾銭以上
- 手術料
- 大弐拾円以上 中五円以上 小参拾銭以上
- 往診料
- 町内初五拾銭 町内次回参拾銭
- 入院料
- 一人(副室付)二円五拾銭 一等二円 二等一円五拾銭 三等一円弐拾銭
- その他電気治療
- 弐拾銭
- マッサージ一回
- 参拾銭
- 検査料
- ツ反(ツベルクリン) 一円
- 血沈 弐拾銭