都桑案内
目次 |
都桑案内を読み解く
『都桑案内』という冊子が発行されたのは大正7年。都桑とは当時合併間近だった宮古町と鍬ヶ崎町を意味し、ふたつの町を都と桑に置きかえた大正時代らしい洒落たタイトルだ。この冊子の特徴は宮古町と鍬ヶ崎町の紹介だけにとどまらず、広告という手段を取り入れ、当時の宗教や民俗、実業家たちの人物紹介、割烹や遊郭、芸妓などの紹介もしており、観光ガイドの先駆けという側面もある貴重な冊子だ。
都桑案内イントロダクション
幕末から明治、大正、昭和、平成と各時代において宮古を紹介した文書や書籍はさまざまな著者によって多く書かれてきたが、そんな中で異彩を放つのが、大正7年(1918)10月23日に発行された『都桑案内』という小冊子(サイズ横9.5×縦19センチ)だ。発行から約90年が経っており原本は岩手県立図書館に1冊のみ現存している。
著者は宮古町旧舘の関口全平、雅号を花涯(かがい)と名乗る人だ。誌面では宮古名所を写真で紹介しながら、当時の宮古における産業、交通、人物、伝説、宗教、信仰、人々の生活を取材している。また、巻末では「みやこまさり」と銘打って鍬ヶ崎、宮古の旅館、割烹、遊郭の紹介、当時の売れっ子芸妓の紹介を大正時代独特の表現で記載しており現在で言うところの風俗誌または観光ガイドの役割も兼ねている。
この画期的な宮古初の観光冊子『都桑案内』は、宮古町下町の花坂伝吉が宮古活版所(現・花坂印刷工業)で印刷し、発行所は宮古町片桁の小成書店(現・株・小成)が当時、定価・金参拾五銭で販売した。この地元編集、地元印刷というスタイルは画期的であり、当時の物価からすれば若干の割高感はあるがこの企画に携わった人々の先進性を感じる。
『都桑案内』がどれほどのロットで印刷されどれほどの数が実売されたかは今となっては定かではないが、著者の主観が中心となってはいるものの広告が掲載された情報誌的な冊子だったこともあり、今で言う本誌のようなローカル雑誌としてある程度の販売数があったものと推測する。
著者・関口花涯とはどのような人物であったか
『都桑案内』の著者関口花涯は本名を全平と称し、宮古町旧舘(現在の愛宕)に住んでいた。関口は『都桑案内』の書き出し部分で著者としてこの冊子を発刊した経緯を次のように書いている…。
(原文のまま)
「センシアリテーな俺は日に肉迫してくる社会の刺激にぢつとして居る事が出来ない。始終そはそはした心で動揺した生活をして居る。俺はこうしていられない何か書かなければならないと思い続ける。俺はとうとう社会の強烈な刺激を追って歩かなければ生活が出来ないようになってしまった(中略)記者生活は俺の生涯の望みであったが、これも家事上の都合で止めさせられてしまい、会社員も俺の目的ではない。(中略)こんな小冊子の完成を以て終生の望みを達した如く喜ぶわけではない。ただ俺の企てた仕事が初めてここに端緒を開き、これが第一歩となって今後続々成就することを冀ひつつ喜ぶものである。大正七年七月一日、編者識す」
この序文から著者は自ら編纂した『都桑案内』という冊子は、本来自分が理想とする仕事ではなく、本当は別な形で活字表現の場を探しているのだと言っている。また、著者は「俺は…」「刺激を求め…」などの乱暴な口調の言葉を使うことで、反体制的な一面を強調し、編纂したのは崇高な書籍ではなく俗な雑誌であることを宣言しているようだ。
大正時代の宮古町の官庁街であった旧舘を闊歩し、反体制思想を燻らせながら斜に構えた文学青年、それが関口花涯のイメージではないだろうか。