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黒森顕彰会

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目次

長慶天皇御陵説と黒森顕彰会

長慶天皇は南北朝中期、後醍醐天皇が践祚し後継した後村上天皇のあとをうけて在位した南朝の天皇とされる。しかし長慶天皇の崩御や実際の院政に携わった事実が明確ではなかっため、長慶天皇の在位・非在位の問題は、江戸時代から異論があり『新葉和歌集作者部類』の著者榊原忠次や『大日本史]』編者徳川光圀(みつくに)は在位説を、塙保己一(はなわほきいち)は『花咲松』を以て非在位説を唱えるなど近世までその在位は謎とされた。後、明治時代になり、正統史学者はおおむね在位説であったが、谷森善臣は『嵯峨野之露』を以て非在位説を論じていた。しかし、大正時代に至り、長慶天皇に関係した古写本『耕雲千首』奥書の発見、八代国治・武田祐吉の有力なる在位論説の発表があり、特に『長慶天皇御即位の研究』において決定的な在位説として評価された。
そこで大正15年(1926)10月21日長慶天皇の皇統加列についての詔書発布があり、ここに長慶天皇在位の事実が承認された。しかし、実在した天皇とされた長慶天皇には御陵がなかったため全国規模の御陵探しのムーブメントが巻き起こったのであった。当時幾多の伝説を元に名乗りをあげた市町村は約200カ所に及び、宮内庁ではそれらを徹底的に見聞し、最終的には村田正志の『長慶天皇と慶寿院』の発表があり、昭和19年(1944)2月11日長慶天皇の嵯峨東陵の決定を見るに至った。

長慶天皇御陵説を唱え積極的に活動した黒森顕彰会

そんな中、昭和初期、宮古では古くから御陵伝説として語り継がれきた黒森神社こそが長慶天皇の御陵ではないかという推論が持ち上がった。その波のピークは昭和9年を境に山田線・宮古-盛岡間開通、昭和12年宮古港・第二種重要港湾指定などの相乗効果もあり、住民を巻き込んで黒森神社長慶天皇御陵説として一気に表面化した。この時期、宮古町は新たな産業経済躍進の時期でもあり、語り継がれてきた伝説は東奥の辺境地宮古の名を全国に知らしめ、同時に新たな観光資源としての展開が期待されていたようだ。
当時、黒森神社長慶天皇御陵説を打ち出し活発に活動していたのが、宮古の郷土史家・伊香彌七を中心とした「黒森顕彰会」という郷土史研究グループだった。同会は昭和4年から長慶天皇の嵯峨東陵の決定を見る昭和19年まで、口伝を頼りに市内の旧家に埋蔵された古文書を読み解き、黒森神社建立の核心へ向かって活動した。その活動は中央から著名な研究者、学者を現地に呼び寄せるなどし、推論や考証を「黒森顕彰会報」という冊子の形で積極的に発表した。同会に登録された会員数は冊子の号数を重ねる事に増え続け会員も市内の名士をはじめ、盛岡、東京…とかなりの数にのぼった。
当時の冊子「黒森顕彰会報1~6号」を見ると唐突に「文中3年8月伊勢湾を出帆し同年9月26日宮古湾外で崩御、卯子酉浜にて玉体発見。御火所は藤原、御灰塚は黒森」と断定的な見出しが踊っているが、基本となる考察は次の通りだ。
古来より黒森山には御陵伝説があり、黒森神社の俗縁起ともなっている是津親王御陵説がある。是津親王は垂仁天皇(紀元前69~)の王子とされ都落ちし奥州の地に流れ、宮古湾にて入水自殺しその遺体を藤原で火葬しその灰を黒森に祀ったとされる是津親王伝説は、後に語られた作り話とし、実際は当地における慶長天皇崩御を言い当てた史実であり、これらの匿名置き換えは後の政治的勢力範囲を欺くための隠れ蓑だとしている。
このような考察は南朝方として伊勢からこの地に流れたとされる三上家に残された伝説や古文書をはじめ、江戸期の南部藩の学者・高橋子績による『黒森山稜記』、江戸期に廃寺となった黒森山の安泰寺、赤竜寺、両寺廃寺後の長根寺文書、現社下にあるとされる謎の石棺、棟札の調査などから、黒森神社の旧社殿跡の古黒森(こくろもり)を中心に黒森山が慶長天皇御陵と考え、多くの考察や論文、古文書写しなどを宮内庁に送った。

是津親王御陵伝説とは

是津親王は垂仁天皇(第11代天皇・紀元前69~)の第5子ということで黒森神社俗縁起に登場するが、実際の皇史にその名はなく実在はしない。伝説は都落ちし奥州へ落ちた親王は田鎖地区の屋敷に身を寄せていた(磯鶏説もあり)。ある日親王は釣り竿を片手に飛鳥方浜へ赴き、自身の不運に嘆き入水自殺したという。家臣等は千徳地区などで聞き込みをして親王が磯鶏の飛鳥方浜へ行ったことを知り捜索するが亡骸を見つけることはできなかった。そこで親王が愛玩していた2羽の鶏を船に乗せて捜索すると洋上で鶏が啼いたためその近辺を捜索し遺体を発見したという。
発見された遺体は藤原で火葬され、後に通夜と火葬をした地に藤原比古神社が建立されたという。火葬後の灰はこの地で最も高い山へ埋めよという指示から、家臣達は黒森山に登り親王の灰を祀り、御陵としたという。また、親王の遺体を発見した鶏にあやかり入水した地区を「磯鶏」、のちにその鶏を重茂の集落に放したところ千羽に増えたので「千鶏」という地名が起こったという。
この伝説は前述の黒森神社俗縁起とされる江戸時代の学者・高橋子績の『黒森山稜誌』の中に登場する逸話だ。この伝説の時代尺度はとてつもなく古く、そのような時代に藤原比古神社、黒森神社等の信仰媒体、あるいは社のようなものがあったとは考えにくい。また、親王が愛玩していたという鶏に関係した地名の起こりも、漢字すら一般化していない時代だけに安易に結びつけるのは無理がある。これらの伝説は真実か否かではなく、黒森神社そのものが古くから里人に厚く信仰されてきたという証であり、古い時代から黒森山全体が崇高な聖地であった証拠と考える方が妥当だと思われる。

黒森顕彰会の足跡

黒森神社の創建はいつの頃だったか正確には判っていない。現在の社は江戸末期に行われた三度目の遷宮によって建立されたものだ。黒森顕彰会ではその社の下部にある箱のようなものと、その下に築かれている石組みが石棺ではないか?と考えた。いにしえの時代、現境内下の丘陵地にある古黒森にあった社から、三度の遷宮と何度となく行われた改修等で遺骨は大切に保管され現社下に埋葬されていると推測したらしい。しかし最近になって現社の箱と石組みは当時の神社建築における意匠であるらしいと考えられている。だからと言ってその下には何もないのか?と言えば疑問だ。しかし、過去から現在に至り誰も黒森神社を発掘調査してはいないのだ。昭和初期に一大ムーブメントを巻き起こし黒森神社を徹底的に検証した黒森顕彰会でさえも、古文書や伝説だけを頼りに長慶天皇御陵説を打ち上げているが実際に大規模な発掘調査をしたわけではない。
黒森神社は社を持つ神社として、ひとつの霊山としていつの時代から信仰されたのかは判らないが、発掘をして何らかの遺物を探す以前に、今も昔も里人の信仰を集めてきた山であり、これからもそれを明確にする必要はあえてないのかも知れない。謎多き黒森山…。だからこそ幾多の伝説を生んできたのである。

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