伊香彌七
- いこうやしち【分類・郷土史家】
- 明治~昭和:明治2年~昭和34年(1869~1959)
大正15年(1926昭和元年)、江戸時代から在位・不在位が論議されてきた南北朝時代後期の天皇、長慶天皇の在位が宮内庁より宣言された。しかし実在したとされる長慶天皇には御陵がなかったため、これを機に全国規模の御陵探しのムーブメントが巻き起こった。当時幾多の伝説を元に名乗りをあげた市町村は約200箇所にも及び、その中で創建は不明ながら南北朝時代には存在していたと考えられる宮古の黒森神社も黒森山一帯を御陵とする長慶天皇御陵説唱え名乗りをあげていた。
この御陵説を主軸に調査解明するため積極的に活動していたのが昭和4年に発足した黒森顕彰会であり、この活動の中心人物が同会理事で郷土史家の伊香彌七であった。
伊香彌七は明治2年(1869)2月21日に新川町の漁家に生まれた。その後、縁あって同じく新川町の江戸時代からの近江商人の商家「近江屋(伊香家)」の娘・りえと結婚し婿養子に入った。
黒森顕彰会では軍医であり当時新川町で開業していた医師・盛合綏之(やすゆき)を会長とし、理事や顧問に宮古、盛岡、東京の学者や名士、特別会員として宮古下閉伊の実業家たちの名が連なっていた。その数は山田線の盛岡~宮古間が開通した昭和9年頃には宮古内外に会員数約500名が名を連ねる歴史研究団体となっていた。
黒森顕彰会では発足当時から『黒森顕彰会報』という冊子を計6冊発刊しており最終号である第6号は昭和12年4月に発行されている。(1~6号は攝待壮一氏により復刻されている)。この冊子の編集も伊香彌七の手によるもので、伊勢からこの地域に流れ、某皇族の崩御を逸話として記録している謎の三上文書をはじめ、旧家に埋蔵されていた古文書を読み下し、口碑伝説究明、学者を招いての調査報告など黒森顕彰会が活発に活動した証が記録されている。
黒森神社長慶天皇及び、謎の是津(これつ)親王御陵説で時代を邁進した黒森顕彰会であったが、昭和19年、宮内庁は全国調査を終え長慶天皇御陵は嵯峨東陵の決定を下している。
伊香彌七は古文書の読み下しや目利きもあったため晩年は新川町で骨董商を営み、宮古下閉伊の旧家に伝わる古文書を読み下し郷土史発掘に尽力した。また、伊香彌七が発掘した文書の中には、義経研究家として有名な佐々木勝三氏に多大な影響を与えたものも多く、生前二人は伊香彌七の営む骨董店で熱弁や意見を交わすこともしばしばだったという。
信仰心に厚く歴史と古文書を愛した伊香彌七は昭和34年、90歳で没した。