高橋寿太郎
- たかはしじゅたろう【分類・軍人・政治家】
- 明治~昭和:明治12年~昭和20年(1879~1945)
日米開戦反対の海軍軍人から政治家へ転身
徳富蘆花の小説『寄生木』で主人公・篠原良平(小笠原善平) にとって同郷の先輩軍人として登場する高橋寿太郎は、明治12年(1879)1月15日千徳村の屋号「せいさつ」という家の父・福弥、母・ヨシの三男として生まれた。宮古の小学校から仙台の東北学院、海軍兵学校を経て明治35年(1902)には海軍少尉となる。2年後開戦となった日露戦争に従軍し金鶏勲章を受けている。後同45年(1912・大正元年)に海軍大学を卒業、大正13年(1924)に海軍少将、海軍大学校教頭、翌年、海軍砲術学校校長、翌年、第一水雷戦隊司令官、昭和2年(1927)海軍軍令部付となったが、その年の秋に行われた海軍大演習の作戦内容に対して批判的であり上層部と衝突、その席で自ら軍人としての地位を捨て海軍を退く。翌年には45歳で予備役となり、中央大学法学部で1年間法律を学んだ後、政治家へと転身した。また、対米英の機運が高まるなか高橋は開戦へ批判的であり太平洋戦争開戦の知らせを受け、田老村長時代元軍人、政治家として落胆し嘆いたという逸話が残る。
政治家へと転身した高橋は昭和5年(1930)2月20日に執行された第17回総選挙岩手第一区に立憲民政党から立候補し当選、衆議院議員となる。後、同 7年(1932)の第18回(この時は岩手二区より出馬)、同12年(1937)の第20回、同17年(1942)の第21回と4回の当選を果たした。ちなみに昭和11年(1936)の第19回総選挙では宮古町の菊池長右衛門に破れ落選している。
現職の衆議院議員であった昭和13年(1938)前年の12年に田老村村長関口松太郎死去のため、高橋寿太郎に白羽の矢が立ちそれを受諾、高橋は津波の傷跡がまざまざと残る田老村村長に就任した。高橋の在任中の田老村は対米英のための内需拡大のため田老鉱山の従業員が1800人に拡大され増産体制がとられた。だが鉱山の量産は多量の鉱毒を海に吐き出し漁業者との公害問題が生じた。またシナ事変などもあり昭和 15年(1940)太平洋戦争が勃発すると津波対策の防波堤工事も中断となった。太平洋戦争が激化する昭和17年(1942)高橋は村長を辞退、太平洋戦争の終結を見ぬまま昭和20年4月8日、衆議院議員のまま東京目黒区で66歳の生涯を閉じた。
戦時中、千徳にあった大同製鋼宮古工場(極東工業・後の日本電工)に岩手県出身の海軍閣下米内光政が視察に訪れた際、その先導役が高橋寿太郎議員だった。また団結力が強いとされた千徳青年団や地区民が好んで歌った応援歌は高橋の歌詞によるものだった。