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一千徳

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地域一番主義・ライバルの構図

いつの頃か、人々は「一千徳(千徳村)、二津軽石(津軽石村)…」あるいは「一津軽石、二千徳…」と宮古町を取り巻く村々に対して順位をつけて評価していた時代があった。この評価は団結力の強い順、足の速い順、野球などのスポーツが強い順であったり、逆に意地悪な順、ケチな順として人々は口にした。ちなみに2番目以下は「…三花輪、四蟇目、五ん田老」あたりが一般的順序で、これら順位は各時代、比較対照により様々に変化した。
地域一番主義は、当時の軍国主義に傾斜していった日本の姿をそのまま映し出しており、他地区をライバル視しながらお互いが向上するという図式の影に悪意や差別も含まれていた。そんなライバル同士の溝はしだいに深まり、時には地域間抗争にまで発展することもあった。それは事あるごとに「どこに負けてもよいが○○衆だけには負けるな」「○○衆には気を付けろ」などという風潮につながり、地区の子供たちは幼い頃からライバル地区を意識するようになり、それは青年団、婦人会へと引き継がれていった。
そんな数ある宮古の地域間ライバルの構図のなかで千徳村と津軽石村の関係は、戦国時代の千徳氏津軽石氏の敵対関係も根底にあり、近世になるまで両村ともスポーツや団結力などで地域一番を宣言し、事あるごとに競ってきた。両村の特徴は宮古町からの最初の伝馬駅と宿場であり、どちらも河川に依存した鮭漁を行い、同時に河川氾濫による水害で耕地を失うことにある。また、中世の頃の統治者がどちらも一戸氏系であり、津軽石の瑞雲寺、千徳の善勝寺とも開基となるのは同一の僧侶であることも特筆される。
現在の情報社会の枠組みからみれば昭和初期までのライバル地区同士はほんの小さな枠のなかで鎬をけずっていたわけだが、その背景を見聞すると実際はどちらも類似した環境のなかにあった同等の力をもつ集合体であったことがわかる。
地域一番主義、地域団結力、そして地域の誇りというものは、戦後、個々の経済活動や団地、住宅ラッシュなどによる人の移動によって希薄化し、現在それらを口にすることは差別や誹謗中傷として受け入れられてしまう。しかし、ほんの少し前までは、地域は個別に村として独立した集合体であり、そこに住む人々が自分の村のために日々切磋琢磨していたのも事実だ。集合体が小さければ小さいほど、個人の大きさは大きく、集合体が大きくなれば個人は微細化するのも事実であろう。ちなみに千徳村が昭和15年、津軽石村が昭和30年、宮古市に合併し現在に至る。

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