山崎鯢山
(=山崎鯨山)
- やまざきげいざん【分類・儒学者】
- 江戸~明治:文政5年~明治29年(1822~1896)
津軽石出身の幕末の儒学者・山崎鯢山
山崎鯢山は、南部藩の第一級儒学者であったばかりでなく、全国的にも知られた高名な詩人でもあった。通称を謙蔵。名は吉謙(きつけん)。字(あざな)を士謙(しけん)。号を鯢山と言った。父は山崎吉興(きつおき)で、その二男として津軽石村に文政5年(1822)旧正月元旦に生まれた。長男は友仙と言う医師であった。当時、江戸に遊学中の兄を帰郷させるために17歳の時、単身江戸に行き、兄を帰した後、儒学を昌谷清渓(まさやせいけい)、林文毅(はやしぶんき)、尾藤竹山に学んだ。後、関東、関西、山陰、山陽に遊学し、京都で梁川星巌(やながわせいがん)に詩を学んだ。星巌は常に鯢山の詩を評して「天籟(てんらい)」と称賛し、籾山衣洲(もみやまいしょう)の「明治詩話」によると小野湖山、大沼沈山と共に梁川門下の三山と讃えている。
嘉衛4年(1851)「イギリス史」「ロシア史」等、新しい学問について書を世に送り、安政4年(1857)「鯨山詩稿」を著した。安政6年(1859)南部藩主の召により、儒官として使え、後、藩作人館の助教となり明治維新に及んだ。
明治初年、県庁に勤め、岩手県地誌編纂にあたったが、同12年、盛岡東中野に集義塾を開き、近隣の青少年数百人がその門をたたいた。その中から大倉誠之(おおくらせいし)、山口剛介等、幾多名のある人々を輩出している。
太田孝太郎が「鯢山の書は拮屈(きっくつ)の風あるも雅韻(がいん)あり、或いは詩の上に出ずるであろう」と評していることから、鯢山は儒学、漢詩、書道共に優れていた事がわかる。また穏健な思想の人であったと考えらているほか、尊皇の思想、開国の思想にも通じていたが過激ではなかった。
鯢山の私塾には、当地方からも勉学のため上盛した人々がいる。宮古の中居源助、八重樫七兵衛、津軽石では盛合蔵六、盛合佐平治、江刺哲道和尚、山口の信夫源八、豊間根の木村軍治、小国の島津初太郎などが鯢山の門下であった。八重樫七兵衛が、岩手県付属小学校時代に作曲編纂した「岩手県小学校唱歌集」の巻頭にある歌は門下生らの人々が、鯢山を中心に作人館中学の校歌として作ったものである。
明治29年5月4日、75歳で盛岡に於いて病死。正伝寺に埋葬され、同寺には子弟の建立した鯢山先生碑があり、誕生の地、津軽石には「鯢山先生詩碑」が建立されている。
津軽石の鯢山顕彰碑
鯢山の七言絶句は津軽石の稲荷神社下JR馬越踏切の鯢山顕彰碑に刻まれている。碑は昭和34年に山崎鯢山顕彰会(盛合光蔵代表)が建立した。
七言絶句は単に7文字の漢字の集合ではなく、漢字の脚韻を踏みながら統一し漢字の平仄(ひょうそく)をパズルのよう組み合わせた漢詩だ。碑の七言絶句の一般的な読みは次の通り。
- 身は落(お)つ丹波丹後(たんばたんご)の間
- 何(いづれ)の時か昼錦(ちゅうきん)慈顔(じがん)を慰めん
- 二千里の外(そと)満天の雨
- 蓑笠(さりゅう)泣き過(す)ぐ 不孝山(ふこうざん)
一行目の丹波丹後というのは京都からはずれた国境あたりで辺境の山の中という意味だ。鯢山は若い頃に京都で遊学しているが、前段の「身落」は落ちぶれるという意味だから、京都で学んでいる時、何らかの理由で京都を去ったことを示唆している。二行目はいつになったら故郷に錦を飾り親を慰めることができるのだろうと将来に対しての不安を語っている。「昼錦」は堂々と昼間に故郷に錦を飾るという意味で「慈顔」は親を表す。三行目の二千里の外は宮古から遠いという意味であり、実際の距離表記ではない。従って百万里でもいいのだが漢字表現を吟味し二千里という文字が使われたと考えられ、同時に後述表現の満天の雨に効果を加えている。四行目は蓑も笠もなく峠越えをする自分の置かれた立場を不孝山という山で表現している。不孝山は現在の丹後宮津市南にある大江山に連なる普甲山であり、鯢山は将来に落胆し、雨の普甲峠を歩きながらその名を中国の古典にある == 不孝山に置き換え、蓑に身の、普甲に不孝を掛けたのかも知れない。