親々堂
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親々堂と盛合家
江戸中期から末期にかけて千石船「虎一丸」「明神丸」を擁して江戸通いの廻船問屋として、また造り酒屋、質屋として富を築いた津軽石の豪商・盛合家は藩政時代から近世まで宮古の経済界の中で大きな影響力を及ぼしてきた。そのなかにおいて、最も漢学・詩学に秀でたのが、号を「寛斉(かんさい)」と称した盛合中左衛門光禧(みつき?)であり、この人物が母屋と連結した「親々堂」という客間と庭を拵えた。親々堂は当時の盛合家の財力の粋の集大成であり、土台の石から部材のひとつひとつが吟味された貴賓室でもあった。
親々堂は盛合家母屋に連結しており今から約200年以上も前の建物で、個別に玄関を持った来賓用の奥座敷だ。親々堂は東側と南側が濡れ縁で囲まれ北側の別室に風呂と便所がある。内部の広さは十二畳半で京風の建築にも似た造りだ。細部にも主のこだわりが生かされ土台石は伊勢湾から運んだ奇岩、伊万里焼きの便器など当時の建築では贅の限りを尽くした設計であった。また、この座敷には寛政9年(1797)沿岸巡視で下閉伊を訪れた南部藩主・利敬(としたか)公が宿泊しており、このことを記した『藩主巡行盛合家日記覚書』の文書と当時殿様に出された御膳などの漆器類が今でも保管されている。
国の登録有形文化財・盛合家住宅母屋
「親々堂」を含む盛合家の母屋は、昨年夏に国の有形文化財に登録された。盛合家は江戸時代後期に建てられたもので、商家造りと武家屋敷造りが混同しており、延べ面積は456・45平方メートルの平屋住宅だ。長い年月により若干の改造が施されてはいるが、各部屋が襖で仕切られ、天井も高く通常の住居にはない独特の建築様式を今に伝えている。母屋の構成は玄関を入って八畳間があり、右に茶室。左に六畳間と四畳半の座敷、その奥に十二畳半の奥座敷・親々堂がある。敷地内には酒蔵、米・味噌蔵、書院、氏神、庭園がある。