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八重樫七兵衛

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  • やえがししちべい【分類・教育者】
  • 明治~昭和:明治5年~昭和22年(1872~1947)

日出島の化石と宮古層群の発見者

明治32年(1899)、日出島の海岸で多量の化石が発見された。その化石は発見者の名前をとってヤエガシイとして当時の学会で発表され、その発見者に敬意を表した。このヤエガシイの発見者が当時、県立水産学校(現岩手県立宮古水産高等学校)教諭の八重樫七兵衛であった。
八重樫七兵衛は、岩手県地誌編纂資料収集のため日出島海岸を調査。その時発見した化石を東京帝国大学(現東京大学)へ送って鑑定してもらうとともに、自らも日出島から化石が出ることを学会に報告した。この後、明治33年(1900)に「陸中国下閉伊郡沿岸の化石産地」、明治43年(1910)に「陸中国東岸に於けるアンモナイトの新産地」として地質学雑誌に投稿以降、大勢の中央の学者が宮古を訪れ、地層や化石を研究した結果、日出島と同じような地層が田老にも、岩泉にも、田野畑にも広がっていることが確認され、これらの地層を初めて発見した宮古にちなんで宮古層群と名付けられた。これにより八重樫七兵衛は、化石の発見者であるとともに、宮古層群の発見者にもなった。
宮古層群は化石の宝庫といわれ、約1億年ほど前の中生代白亜紀前期のもので、各層からたくさんのアンモナイトが産出され、その数五百種の海生動物や樹幹の化石が見つかっている。
八重樫七兵衛は明治5年(1872)に鍬ヶ崎に生まれた。県師範学校を卒業して鍬ヶ崎尋常小学校で教鞭を取ったあと、明治34年(1901)から昭和3年(1928)まで県立水産学校の教諭をつとめた。その後に町立宮古実科高等女学校の校長となった。
水産学校時代は、地質学の研究に励み、前述の学会に貢献した功績は多大なものだったが、このほかにも気象学、海洋学も担当していた。さらに多趣味でもあり、絵画、書道、文学(短歌)においても地方の第一人者でもあった。大正9年(1920)10月には水産学校創立二十周年記念に校歌を作詞・作曲。この校歌は旧校歌として藤原校舎に学んだ同窓生にとって今なお口ずさまれている。また寮歌、記念歌など多くの思い出のメロディーを残している。
その後、教壇を去った七兵衛は昭和11年(1936)に宮古町会議員となり一期つとめた。また余談だが七兵衛の次男勇次郎は日本でも有名な洋画家として松本竣介五味清吉らとともに大正から昭和にかけて活躍している。七兵衛は昭和22年(1947)3月12日76歳で亡くなった。

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