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宮古丸と寅丸

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南部藩御用船・宮古丸・寅丸

江戸初期から数回にわたり建造された南部藩の御用船宮古丸と寅丸は南部藩の海運を担う船舶として宮古港に配備された。藩では宮古に専用の御主水(おかこ)まで配置したが、御用船は宮古川河口(閉伊川)に係留されたままで荷を積載し運航されることはなかったという。江戸末期の文化12年(1815)に建造された最後の「宮古丸」も完成したにもかかわらず角力浜の造船所から船下ろしした記録はなく、後年商船として転売されたものと思われる。

南部藩の海運と宮古港

南部27代藩主利直は、元和元年(1615)東海岸巡視の折りに宮古に逗留し、宮古港を南部藩の藩港として重要な位置づけをしている。また寛永年間(1624~28)に、紀伊大納言頼宣から船奉行竹本丹後守の配下であった、船頭の高橋吉右衛門ら6名の派遣を受け宮古に居住させている。この記述については各文書により若干の時代差違はあるものの、この時代すでに南部藩には御用船「宮古丸」「寅丸」が新造され、その船の船頭、御主水頭として高橋氏を召し抱えたと考えられている。
『高橋氏系譜』によれば南部藩の御用船は「宮古丸」「寅丸」「八戸丸」「大椎丸」「盤提丸」「花巻丸」があったとしているが、南部藩が寛永(1624~)から承応(1652~)にかけて建造した船には船名はなく「船頭、何某の御船」とのみ記録されている。
初代の「宮古丸」「寅丸」建造に関しては不明な点が多いが、二度目の建造は時代が下って延享2年(1745)に吉里吉里の前川氏の手によって造船されている。新造船の理由は、以前建造した初代「宮古丸」「寅丸」が放置されたまま朽ち果てたためであった。藩では宮古代官所において必要な材料は用意させるが、建造に関しての費用は前川氏が商っていた魚粕魚油販売の上納金で補うよう申しつけている。つまり建造費は丸ごと上納金と差し引くという半ば強引な申しつけでもあった。完成した両御用船は「宮古丸」が685石積み「寅丸」が241石積みと計算され、それぞれ宮古に廻航し係留した。
しかし、「寅丸」は建造されたその年に嵐に遭遇、相州(伊豆)鴨居村腰越濱に座礁しそのまま払い下げとなり、「宮古丸」も結局は使用されないまま閉伊川に係留された。これはこの時代になり一般の商人たちの海運も発達し、遭難や難破のリスクを負ってまで南部藩御用船を用立てるより、商人たちの船を使い利ざやを稼ぐ方が藩にとって分が良かったためで、文禄年間に秀吉の元へ馳せ参じた南部信直が感じた御用船の思想とはかけ離れた結果となった。

南部藩の造船の歴史

文禄年間(1592~95)朝鮮侵攻のため豊臣秀吉が九州名護屋に布陣した時、南部信直も出陣している。この時の経路は出羽などの北国路をたどり、物資の輸送は雇い船で日本海の港を経由して運んだとされる。つまり当時、南部藩には御用船がなかったのである。信直は名護屋にて南部藩の物資輸送の不備を実感し、対して秀吉が集めた船舶、参陣した諸大名たちの藩船が名護屋に集結する様を見て海運の必要性を痛感したとものと考えられる。また、元和元年(1615)大阪夏の陣においても武具・馬具を雇い船で運び、翌年の南部凶作の時も雇い船で米を運んでいる。
南部藩が初めて造船に着手したのは、記録等が定かではないが慶長末期(1596)頃とされ、当初は和賀川の渡船であった。後、大阪から船大工を呼び海船の造船を行ったというが、特定できる資料はない。南部藩がどのようにして御用船を建造したかは詳細をつかめないが、正保5年(1648)の南部藩雑書に「船繕い」の記載がある。この当時の「繕い」は修繕ではなく新造を意味し、関わった職人も多いことから御用船造船の記録とされている。この後の記録は慶安2年(1649)の造船記録で、大阪、江戸の船大工を呼び寄せ二百石船を建造、翌年の慶安3年には宮古で大型船の船造が行われている。南部藩領内においての造船地はまず八戸が重要な基地としてあげられ、次いで宮古の角力浜、磯鶏、大槌なども有力な造船地だった。

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