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近世異国漂流史

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目次

ロシアに流れついた宮古衆。初の「露日辞書」を作ったのは彼らだった

延享元年(1744)11月14日、現青森県下北の大畑港を出帆した多賀丸(千二百石積)はイワシ粕、コンブ、大豆を積み、江戸に向かった。水主(かこ)のうち、三之助、久助、長助の3人は宮古人船方だった。しかし、海が大荒れで7人が凍死、残り10人(9人、7人説もある)は北に流され千島列島の端、オンネコタン島に漂着した。彼らはロシア人に助けられそのまま本土へと送られ、全員がロシア正教の洗礼を受け、ロシア名をつけられた。
三之助はタタリーノフ、久助は(チュスキ)イワン・アファナッシェフ・セミヨノフ、長助(チョスケ)フィリップ・ニキフオロフ・トラベスュコフと呼ばれた。
漂流者のうち頭のよい者はロアシ語を覚え、日本語学校教師となった。またロシア人の妻と結婚、子どもももうけた。帝政ロシア政府は日本通商のため、これら漂流者を教師にして保護利用したのだ。

初の露日辞書は南部なまり

それだけでも数奇な運命なのに、それを逆にエネルギーにした男がいた。それが三之助で、1773年頃、彼は最初、南部生まれの教師5人でロアシで初の露日単語集を編集した。しかし、かなり南部訛がひどかった。1783年(天明2)には、この単語集をベースに、三之助の息子三八(アンドレイ・タタリーノフ)は「レクシコン」(露日辞典)を編集、ロアシ科学アカデミーに納本した。
この序文には「ニボンノヒト サノスケノムスコ A・Tサンバチ コサリマス」は「日本の人 三之助の息子A(ア)ンドレイ・T(タ)タリノフ三八でございます」とのこと。辞典は51枚102ページで、単語977語に対する日本語は平カナだが、これが宮古弁、下北弁になっている。
例えば、ホドゲ=ほとけ、仏、フト=人のこと、テンブグロ=手袋、サギ=酒、オマイ=お前、マナグ=目、コゴノムラサ=ここの村に、キアシタ=来ました。など三之助の言葉を聞いて編集したため、日本語の部分はこうした訛になった。
ともあれ宮古生まれとロシア混血の三八が、18世紀前半の宮古や下北の方言をロシアに残してくれたことは正に数奇なものである。
後年、ロシアに漂流した伊勢の大黒屋光太夫らを日本に送還(1792年)する際、同行した久助の子タラヘースニコフも、日本人とのやりとりは南部訛だったという。こうして編集された初の「露日辞典」は数十年にわたって、ロシアと日本の橋渡しを務めたのである。しかし、多賀丸の漂着者全員は、故郷に帰ることなく、一生をロアシで過ごした。

宮古生まれの子孫がロシアで活躍

多賀丸漂流から50年たった1792年(寛政4)、ロシア使節アダム・ラックスマンが、日本との通商を求め北海道根室に来航した。鎖国中の幕府は必死の説得で何とか帰ってもらった。
この時のロシア通訳はイワン・トラベスニコフ(36歳)は、多賀丸水夫が父親で母はロシア人と言う。父は宮古の三人のうちの誰なのか、『魯西亜紀聞』では、「久助が赤人の国にて生し子、イワンヒリボイチ・タラーヘースコフと云もの」とあり、久助の息子らしいが、日本名チョスキか、チョスキュかで、同じ多賀丸乗組みの大間生まれの長松なのか、宮古の長助かは判然としない。しかし、この南部船方たちがロシアとの間にいくばくか関係したことは事実である。

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