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宮古と石川啄木

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目次

石川啄木と宮古

石川啄木の「啄」の文字の「豕」は公式の表記(点あり)ではなく、通常のワープロ表記です。
望郷と漂泊の天才詩人、歌人として知られる石川啄木は郷土岩手の玉山村に明治19年に生まれた。『一握の砂』や『悲しき玩具』など多くの詩集や文学作品を残し、26歳という若さでこの世を去った。その啄木は宮古の地にも所縁(ゆかり)がある。北海道での新聞記者時代、宮古出身の同じ記者、小国露堂とも親交があったほか船で上京の際、宮古鍬ヶ崎に立ち寄っている。啄木は文学への夢を追い、上京し26歳2ヵ月の生涯を終えたが、宮古はふるさと岩手の最後の地となった。
歌人の石川啄木(1886~1912)が宮古に上陸したのは今から100年前の明治41年(1908)4月6日。啄木は船で釧路から上京の途中で宮古に立ち寄り7時間ほど滞在、鍬ヶ崎の道又医院を訪ね、そば屋でウドンを食べた記録などが残っている。

鍬ヶ崎を見下ろす高台にある啄木寄港の地記念碑

この記念碑は「宮古港に啄木文学碑を建てる会」(佐藤歌子代表)によって、昭和54年に建立された。宮古漁協ビル前の坂道で、この場所は昔の宮古測候所の跡地でもある気象観測所の八角形の白塔が建っていた場所で、この台地から宮古港が一望できる絶好の場所である。
啄木が乗った酒田川丸も、湾口の北からこの白塔を目標にして入港してきただろう。全国的に数多い啄木碑の中で、この宮古の啄木碑はいわゆる歌碑ではなく、「啄木日記」を刻んだ文学碑である。碑名を「啄木寄港の地」とし、碑文には明治41年4月6日の啄木日記全文を刻んだ。材料はアフリカ産黒御影石、書体は朝日新聞東京本社の好意で新聞活字とした。当初は啄木自筆の原文を使用したいとのことだったが、日記を保管している函館市立図書館からの許可が降りず、啄木が東京で勤務した朝日新聞の活字が使われている。

建 立:昭和54年(1979)4月
場 所:宮古漁協ビル(光岸地)
建立者:宮古港に啄木文学碑を建てる会

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啄木寄港の地の碑(碑文)

起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が限界を閉じて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
十時頃瓦斯が晴れた。午後二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない。四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先に届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になったり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、かびの生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗った抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼った女の家でウドンを喰う。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習って居た。芸者にするかと問えば、“何になりやんすだすか”
 夜九時抜錨。同室の鰊取り親方の気焔を聞く。

啄木日記原文

四月六日

起きて見れば雨が波のしぶきと共に甲板
を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉じて、海は
灰色の波を擧げて居る。船は灰色の波にもまれ
て、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古
港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。
梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海
道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて
置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、
富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古
風な、沈んだ、かびの生えた様な空気に充ちて、料理屋と
遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵
白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎭痛膏を
こめかみに貼った女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけ
の隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を
って居た。藝者にするかと訪へば、何になりやん
すだかす。夜、九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔
を聞く。
(原文ではこめかみは漢字表記)

啄木日記原文と文学碑の相違点について

「啄木日記」は函館図書館に保管されている、上の文は啄木自筆とされる文章、文節、段改行をそのまま記載。宮古漁協ビルにある啄木文学碑に刻まれた日記は、縦書きで啄木が勤務した縁で、朝日新聞東京本社印刷局の書体による。そのため日記では道又金吾氏(医師)であるところを、(醫師)、こめかみが漢字表記なのだがひらがなで「こめかみ」と表記されている。これは当時「医」の字が略字だったこと、漢字のこめかみが旧字だったことによると考えられる。しかし、うどん屋の女将に対して女児の将来をたずねたくだりで日記では「藝者にするかと訪へば」を、「藝者にするかと問へば」に修正している。この修正に関する記述は昭和54年当時の文学碑建立の記事を調べても触れられていない。

啄木日記に記載された宮古

明治41年4月6日。釧路を出航して宮古に向かった汽船「酒田川丸」に石川啄木が乗船していた。啄木はそれまで勤めていた釧路の新聞社を辞め上京。その途中に宮古に立ち寄ったのである。啄木は宮古に降り立ち、宮古の印象を日記に書いた。
啄木が記したその頃の宮古の面影は今はあまり残ってはいない。当時、桟橋は鍬ヶ崎の海岸通りの石積みの岸壁から沖に向かって伸びていた。木杭に橋桁、それに橋板が敷かれた木製の桟橋だった。そこにははしけ船が着き、沖に停泊する船との連絡にあたっていた。
啄木は酒田川丸で釧路を出発する時、宮古の道又医師宛に一通の紹介状をあずかってきた。この紹介状を書いた人は、盛岡生まれの菊池武治という人であり、道又医師とは従兄関係があったようだ。菊池は北東新聞の記者で、啄木の小説「菊池君」のモデルでもある。「年はおよそ四十、正直で気概があり、為に失敗ばかりつづけて来た天下の浪士、恐ろしいばかりの髭面、昔なら水滸伝中の人物、今なら馬賊」と啄木は書いている。
鍬ヶ崎・道又医院は、浜通りから突き抜けて山手に登る道又沢というところにある。啄木は道又金吾医師を訪ねここで御馳走になり、恩師富田先生(小一郎)の近況を聞いた。現在の道又沢は当時とは様変わりしているだろうが、どこかに啄木の足跡を感じる風情が今なお漂う。
日記に「沈んだ、かびの生えたような空気に充ちて…」と啄木は書いているが、その日の空模様によってはそのような、ちょうど裏町のような雰囲気も漂いがちな、狭い街筋であったかも知れない。啄木が立ち寄ったうどん屋は、道又医院から出て岸壁に至る間のことだから、当時、現在の宮古信用金庫鍬ヶ崎支店前あたりに「賛成屋」と「たまや」の2軒のそば屋があったという。2軒は約30メートルほど離れていたというから、啄木が入ったのはそのいずれかではないかと考えられる。うどん屋の奥の一間で、三味線を習っていた少女は、その後何と言う名の芸者になったのか、あるいはどんな生涯を送ったものか、興味は尽きない。
この日記には、当時の宮古・鍬ヶ崎の日常が垣間見える。しかし、啄木のこの旅は、老母と妻子を北海道に残し、自分の文学的運命を賭けた悲壮な船旅であったともいう。

啄木が訪ねた道又金吾氏とは

啄木が面会した道又金吾は、盛岡市本宿家の出で、鍬ヶ崎の医師、道又元兆の養子となった人物である。金吾の妹は田中館愛橘博士の夫人清子で、兄は元海軍主計総監本宿宅命である。本宿宅命は苦学力行、閥外ながらよく大佐に進み、第1回帝国議会では政府委員として活躍、将来を注目された海軍の偉材だったが41歳で亡くなった。後に金吾は「啄木がそんなに偉い人とわかっていたら、もっとごちそうすればよかった」と宮古新聞の記者・小国露堂に語って苦笑したという。

啄木が訪ねた頃の遊里。鍬ヶ崎

啄木が釧路を出航し「酒田川丸」で鍬ヶ崎の地に降り立った頃の鍬ヶ崎は、藩政時代から続いた遊郭街が軒を並べた遊里であったと思われる。啄木もその雰囲気を「古風な、沈んだ、かびの生えた様な空気に満ち」と表現している。が、しかしこれは啄木を乗せた酒田川丸が鍬ヶ崎に入港した時間が午後2時頃であり、言ってみれば花街である鍬ヶ崎上町にとっては営業時間外であった。それでも道を行く女たちは「白粉を厚く塗った抜衣紋の女たちだ」と描写されており、おんなたちがその道の商売女であることを記している。ちなみに「抜衣紋(ぬきえもん)」とは首から背中が大きく露出するように着物を着ることで遊女や芸者の着方だ。
 啄木がうどんを食った二間ばかりの小さなそば屋では、十歳ほどの女児が三味線を習っていたらしく、啄木は「この子も芸者にするのか?」と訪ね、女主に鍬ヶ崎弁で「何になりやんすだかす」とお愛想されている。おそらく女主は「何になりやがんだぁがねんす」と言った感じに答えたと思われるが、時間が経過し啄木が日記に記載する時に方言部分の記述が曖昧だったのではないかと思われる。
 啄木を乗せた酒田川丸の所属は不明だが、啄木が上陸したその年に三陸汽船株式会社が発足し、宮古・鍬ヶ崎は塩竃航路の起点として一躍脚光を浴びる。定期ダイヤで運行される近代交通の幕開けとなった「三陸定期汽船」は鍬ヶ崎にかつてない経済と文化を呼び入れた。この頃の人の流れは鍬ヶ崎が主流であり、啄木が見たかび臭い遊郭街に、新しく芸者を呼んで酒を飲む料理屋が立ち並んだ。当初、料理屋も遊女をかこった揚屋のような営業をしていたが、大正期頃には一部を除いて完全に分離、鍬ヶ崎遊興組合が発足し、廓と料理屋、遊女と芸者は鍬ヶ崎遊里文化の中で住み分けがなされてゆく。そして鉄路開通で商圏が西に移り、戦争を経て、戦後の売春禁止法策定まで、鍬ヶ崎上町は江戸から続いた遊里としてその紅灯を灯し続けた。

啄木に社会主義を説いた宮古出身の新聞記者、小国露堂

宮古最初の新聞「宮古新聞」は明治44年9月3日、小国露堂(1877~1952)によって発刊された。北海道の新聞社から郷里に戻った彼が主筆となった。
露堂は本名を善平といい、明治10年10月12日、宮古町横町で生まれている。小さい頃から新聞記者になるのが夢で、北海道に渡り「函館新聞社」を皮切りに各新聞社で活躍した。明治28年以降のことで、のち露堂は札幌の「北門新報」に入社し政治記者になるが、そこで函館から来た石川啄木と出会う。この出会いにより、啄木は露堂から社会主義の洗礼を受け、半ば、社会主義開眼に似た境地にまで達したとも言う。
露堂と啄木はその後、新しく発刊される「小樽日報」へと鞍替えする。啄木の入社を世話した露堂が啄木を誘ったもので、それは啄木が北門新報に入社して2週間目のことだった。やがて啄木は「釧路新聞」へと移るが、露堂も啄木がやめたあとの釧路新聞に入社している。露堂はその後、「室蘭毎日新聞」や「東北海道」の創刊に参加するなど、目まぐるしい遍歴を歩んだ。ちなみに露堂が創刊した宮古新聞は昭和16年12月27日までの3831号で終刊となった。

駒井雅三が露堂から聞いた啄木像

月刊みやこわが町創始者で、昭和元年に文学結社「未耕社」を創立し、活動していた故駒井雅三(1907~1985)は、露堂とも親交があり宮古新聞の文芸欄も担当していた。未耕社は露堂の宮古新聞の強い支援のもので育てられたと言っても過言ではなかった。一方、雅三は啄木研究のための啄木会を作って、4月13日の啄木命日には、毎年、啄木研究家、吉日孤羊や阿部康蔵らを招き文芸講演会を開くなど盛んな活動をしていた。そのため啄木に対する関心は高かった。その雅三と露堂の啄木に関するやりとりが、雅三が著した自伝小説「岩水時代」下巻(昭和61年刊)に次のようにある。
(以下小説・岩水時代より抜粋)
 「露堂は、歯に衣を着せぬ人でずばずばと物を言う人だった。和服に袴をはき、左の肩を上げる癖があり、白面でまゆ毛の濃い、物を見すえる目は、きつかったが、いつもは柔和な顔をしていた。
 『啄木か あれァ不良青年さ』
 と、言ってカラカラ笑い飛ばした。正三の驚くのを尻目に、語を継いで言った。
 『金は借りても 払いやがらねえす 女ごは片っぱしから 引っかけるし 手のつけられねえ 奴さ』
正三は、露堂の啄木観で、啄木への夢は、打ち消される思いだった。しかし、それは幻滅でないと打ち消した。啄木の反面、つまり生身の人間像として見えない部分を、露堂は、はっきりと見ていたのであろう」

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