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土岐千徳氏

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目次

土岐氏系譜と千徳氏

千徳舘興廃実記・上』によると、土岐氏は清和源氏の流れにあり源姓であったが保元の頃(1156~)3代目にあたる出羽判官光信が土岐氏を名乗ったという。系譜には土岐氏7代「国衡(くにひら・光行長男)」までは清和源氏系譜にあるが、8代「光定」は光行の十男でありその存在は不確定だ。その後南北朝初期に土岐氏13代にあたる土岐小太郎孝長が奥州に流れ閉伊中村(千徳旧地名)に草庵を結んだ。これが土岐千徳氏の初代で草庵は善勝寺の起こりとしている。この頃対岸の田久左利氏が新城を築き野舘にこもり趣味に明け暮れており、孝長の嫡男土岐十郎太郎孝愛(たかあき)は諸浪人を集め千徳地頭を名乗り千徳城の築城を開始したとしている。

臣籍降下と清和源氏

奈良時代中期まではかろうじて律令制度が機能していたが、蝦夷征伐、大仏建立、遷都などが続くと皇室の財政は圧迫され財政難になる。そこで行われたのが親王、内親王を皇室から離脱させる臣籍降下だ。皇子は民間に降りるにあたり天皇から新しい姓名を賜る。この名字は一気に30数人の皇子を臣籍降下させた第52代嵯峨天皇に習い「源」姓が与えられるのが通例になっていた。そこで臣籍降下させた天皇の名を冠にして「○○源氏」、また系譜を遡ってたどり着いた天皇の名を冠に「○○源氏」と呼ぶようになった。このような源氏は全部で21の流れがあり、それぞれ繁栄した流れも衰退した流れもある。その中で清和天皇を祖とする「清和源氏」の流れには源頼義、頼家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、源義経をはじめ、『千徳舘興廃実記』に登場する土岐氏、後の盛岡藩主となる南部氏も含まれる。

千徳VS津軽石の構図

『千徳舘興廃実記・下』によると一戸千徳氏として3代目の千徳政吉は千徳で生まれたが南部氏の津軽郡代後見役の任についていたため浅瀬石城から戻ることはなかったという。そのため千徳城は政吉の嫡男「政氏」が城主だったと考えられる。政氏は天正11年(1583)以前より不仲になっていた津軽石行重(俗名鬼九郎)を正月参賀のためと千徳城に呼びつけ、これを討っている。この事件は後の千徳氏津軽石氏の戦に発展するがこの殺害状況も幾多の説が語られている。『千徳舘興廃実記』では参賀を終え帰路につく行重に行重の家臣・衣笠東伝が千徳側に寝返り突然斬りかかったと伝え、のち東伝の裏切りは千徳氏の策略であると伝える。主を失った行重の家来たちは散り散りに逃げたが家来の一人石峠八郎は舘合の山中にて待ち伏せていた伏兵により討死したという。この事件は『東奥古伝』など江戸期に書かれた多くの文書で紹介されるが内容は活劇風に脚色されており、事件の真意はともかく細部の内容の真意は定かでない。『古城物語』の著者田村氏はこの戦の原因は定かではないが、勢力をつけながら増長してゆく津軽石氏に対する千徳氏の危機感による制圧であり、これらは戦国時代を生き抜く豪族たちの戦略だったのではないかとしている。
現在舘合の無線塔下の山道には舘合で討死したという石峠八郎の末裔が建てた供養塚があり往時を偲ぶことができる。

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