千徳舘興廃実記
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謎の豪族・土岐千徳氏に迫る唯一の著書
『千徳舘興廃実記』は千徳城の築城年代、舘主、代替わり、系図、没落について明治時代に執筆された論文的書き付けだ。当時何冊かが限定製本され世に出たとされるが、現在は原本が県立図書館に残るのみ。執筆は当時の千徳村助役・山崎小三郎。土岐千徳氏の末裔・千徳瀬兵衛(興廃実記検閲人)が北海道から訪ねてきた際、千徳に伝わる伝説、推論など情報交換し双方の意見をまとめ編纂している。本稿での推論に初代・千徳城主・土岐氏の存在がある。しかしながら土岐氏は他の文書にはその名前がまったく登場せず独自の創作推論だとする歴史家も多い。
千徳舘興廃実記から見た千徳氏
諸説が多く謎の多い千徳氏の系譜ではあるがそれを一刀両断に解説した冊子が『千徳舘興廃実記上・下』だ。この文書は明治35年に山崎小三郎という人がまとめたもので、南北朝期から江戸初期にかけて千徳城主あるいは千徳を知行地とし「千徳殿」と呼ばれた3つの一族について記述されている。『千徳舘興廃実記上・下』では千徳氏の祖を中央から流れてきた土岐氏とし、文亀1年(1501)閉伊の諸舘を侵害し続ける土岐千徳氏を南部の命により滅ぼしたのが桜庭氏であり、その後千徳城は南部氏が派遣した一戸氏が受け継いだとしている。また一戸千徳氏は3代目の千徳政吉の頃、千徳城と津軽浅瀬石城を兼任した城主で、一戸氏の直系は天正年間、浅瀬石城で大浦氏により滅亡、その時期の千徳城の留守居が一戸孫三郎であり、千徳城破却後、千徳を統治したのが桜庭氏であるとしている。
『千徳舘興廃実記上・下』は明治の頃北海道に渡っていた土岐氏の末裔千徳瀬兵衛(せんとくせいべえ)が先祖の史蹟を確かめるため千徳を訪れ系譜などを参照に、当時の千徳村助役であった山崎小三郎氏と情報交換し編纂されたもので『岩手県史・中世編』をはじめ多くの書籍で引用されている。しかし記載内容の年代や人物に明らかな間違いが多いこと、千徳氏を名乗ったという土岐氏一族が『東奥古伝』などの他の文書に全く記載されていないことなど、大部分が江戸期の創作ではないかと疑問視する部分も多い。しかしながら、一戸氏が浅瀬石城主であり千徳氏を名乗っていたという説は青森県黒石市に残され、宮古市と黒石市の姉妹都市締結の発端でもあり『千徳舘興廃実記上・下』の全てが創作であると言い切るのは危険な判断であろう
千徳舘興廃実記序
仰泉徳と云うは往昔は中村と云う地名にして今の宮古街を距る一里内の位置にあり千徳城主土岐氏の盛んなりし頃は今の下閉伊郡中髄一の部落にして豪商多く人家三百五十余戸ありしと云うも年毎に減少して今は僅かに百五十戸を存するのみ。其故は元禄年中南部候にして黒田谷地を埋立し一つの街を開かれて名けて宮古と号す。
其の位置便宜なる故日に月に繁昌して今は千二百戸を有す。千徳は之に反して年々衰え内町新町の如き其の名、而残れりと云うにあり。
土岐氏千徳瀬兵衛なる人は本書の主人公千徳次郎善勝の後裔にして当時北海道後志国小樽郡小樽に住す。陸中国鹿角郡毛馬内町の産にして慶三年函館に移り維新の当時は官途にあり。
明治十年官途を去り草木殖裁会社員となり盛んに殖産事業従事す。今日其の成功を見るに至ると云う。同氏常に先祖の旧蹟なる千徳の古事を慕ひ同村善勝寺に書を寄せられ孝長以下五世の旧蹟を尋ねらるるに住職川村哲英は元二戸郡の人にして其の上住職の日も浅く当地の古事に明かならず仍て之が調査を手に託す。
予是より千徳氏と往復数回の問答に互いに旧記伝説の交換をなす。当地里老の言と大同小異なり。而千徳氏寄送せらるる処のもの其確かなるを認む。千徳氏の寄せられし旧記及び土記氏の系譜の謄本其の外千徳氏の蔵書の写に仍て此の一小冊を草す。名けて千徳舘興廃実記と号す。是千徳氏の系譜及び旧記の写にて毫も加作する処なき実伝なれば斯く名けたるなり。
明治三十五年十月一日 編者 山崎氏
千徳次郎善勝(土岐千徳氏)の最後と一戸氏(一戸千徳氏)の登場
『千徳舘興廃実記』の特殊かつ衝撃的内容のひとつは、近郷の舘を制圧し閉伊の侍大将となった5代目千徳次郎善勝の最期についてだ。千徳次郎善勝の暴挙に対し南部信時公は閉伊諸豪族へ謀り、千徳氏の勢いに苦しめられた者を密かに南部方へ寝返らせ、最終的に桜庭安房光康を討ち手の大将として差し向けたというのだ。『千徳舘興廃実記』ではこの合戦の様子をこと細かく記載しており、桜庭軍勢に加わっていたとされる田久左利氏、田代氏、小笠原氏がどのようにして屈指の要害千徳城を攻略したのかを記している。また当時の千徳城の形態や眺望などが詳しく書かれており、千徳城本丸からは西に田久左利氏の舘(三合並城)、花輪、長沢、松山、東に黒田の谷地、藤原の遊郭、港の景色まで見えるとしているこれは『東奥古伝』などの記録を脚色したものと考えられる。
千徳城攻撃は何日も続き、最終的に追いつめられた千徳次郎善勝(よしかつ)は二の丸に火を放ち自害、こうして勇名海辺無双(ゆうめいかいへんむそう)と賞賛された千徳次郎善勝は没し、土岐千徳氏は滅亡、桜庭氏はその旨を三戸南部氏に報告したという。時に室町時代中期の文亀1年(1501)の出来事としている。
『千徳舘興廃実記』では千徳城で自害した千徳次郎善勝の嫡男・善実(よしのり)が戦いを逃れ岩船に遁走、民家に隠れ後に八兵衛と改名、土岐氏の末裔18代であり、同時に千徳氏の生き残りで、岩船氏の祖となったとしている。また、千徳城には南部氏の配下、一戸氏が送り込まれ閉伊侍はそれに従ったとしている。
岩船に落ちのびた善実は天文8年(1539)没、嫡男・実秀が岩船初代となる。のち江戸期に入り桜庭の家臣として秋田領で討死した善雄、実温(のりやす)、一温(もとやす)と続き一温の代に鹿角郡毛馬内へ転出、のち7代を数え、土岐氏30代として、千徳瀬兵衛が鹿角郡毛馬内に生まれ、明治初期に北海道へ渡り、小樽にて草木殖産事業を着手。明治35年(1902)に『興廃実記』に記される内容をもって千徳村に訪れ、著者・編者であり当時の千徳村助役の山崎小三郎と出会うことになる。
関連事項
- 千徳氏
- 土岐千徳氏
- 閉伊氏
- 桜庭氏
- 三戸南部氏