千徳城
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土岐千徳氏と中世の山城・千徳城築
閉伊地方きっての要害千徳城だが、築城年代ははっきりしておらず漠然と14世紀末頃ではないかと推測される。実際には南北朝期に「千徳古館」が築かれ、のちに室町時代から追加改良工事が施され、ほぼ完成形となったのは戦国時代に入ってからであったと推測されている(古城物語)。ここで最大の関心事は千徳城本体の完成年代が、周辺豪族の舘や城の移転、築城にとどのようにリンクしていたかだ。これは居館の転居や新舘の建設が豪族にとって武力の誇示であり、戦を踏まえた将来的戦略の新展開にもつながるからである。
『千徳舘興廃実記』によれば千徳城築城は奥州へ流れ仏門に入った土岐氏13代にあたり、同時に土岐千徳氏初代となる土岐孝長とその嫡男、2代目土岐千徳氏となる孝愛(たかあき)の代としている。初代孝長の享年は南北朝時代の応永1年(1394)であり、自ら千徳地頭を名乗った孝愛の享年は父の没後約30年経ってからの応永30年(1396)としている。また、土岐氏が奥州に流れ閉伊千徳の地に定着して勢力を広げる様を次のように記している。
(意訳)
13代土岐小太郎孝長は北朝の康暦2年、南朝の天授6年、この年奥州閉伊郡中村の郷に下り蟄居(ちっきょ)する。仏門に入り入道貞庵(じょうあん)と号す。庵室を設けここに居る。その嫡男・土岐太郎八郎孝愛は武道を磨き民を愛す。この時あたりに閉伊田久左利氏(田鎖氏)、嗜酒にふけり政令乱れ民、離散する。これを見て孝長入道をもって民をなつけ(宗教)、孝愛が武をもって諸浪人を集め中村・近内の地を横領して自ら地頭を名乗り一城を築きこれに拠る…。
この記述によればこの頃、閉伊川対岸の閉伊氏は何らかの理由で(閉伊川氾濫等の自然災害だった可能性もある)根城から老木を経て田鎖に移り田久左利氏を名乗るとともに、後に田鎖城と呼ばれた三合並の城を築城、している。また『東奥古伝』で伝えているように、城とは別に野舘と呼ばれた別荘のような一室を設け田久左利氏はここに住んでいたとしている。
野舘で趣味や酒にふける領主に対して領民の心が離れてゆくのを見て、孝愛は近内、千徳を占拠、自らその地の地頭を名乗り後の千徳城建設に取りかかったというのである。中村とは千徳の古い地名であり、南北朝の頃この地方に大干ばつがあり、土岐孝長が水脈をたずねて奇水を得たという。これは仏門に入った孝長が神仏に祈り新たな水源を託宣したという意味と捉えられ、これが泉(千)徳という地名の起こりになったという。これにより民は大いに喜び土岐氏を敬愛したという。孝長の死後、当主となった孝愛はかねてから着手していた千徳城築城の一大工事を挙行、父の草庵を城の西に移動しこれが善勝寺の開基であるとしている。
これらの記述によれば田久左利氏の三合並城が完成した数年後には、閉伊川対岸で土岐孝愛は築城を開始し、代替わりしながら数十年を経て千徳城が完成したものと考えられる。
築城は高度な測量技術が必要だった
中世の城や舘はある程度の高さをもつ里山を改造して築城されている。だが一口に築城と言ってもそれはかなり高度な測量技術とそれを建設する技術が伴わなければならない。そのためには城主となる人物の統率力と経済力もさることながら、中世の頃は地質も含めそれら要害となりうる里山を見抜く能力と、建設する技術力を持った集団が個別に存在した可能性も充分考えられる。またそれら技術は戦乱とともに他の舘との戦や情報交換で日々進化し様々な工夫がなされたと考えられる。同じ中世の山城といえど、南北朝前期に築城された根城と、戦国時代直前に完成したとされる千徳城では明らかに設計思想が違っており、どちらも同等の標高にある山城だが千徳城の城郭構成がより複雑かつ変則的で、先天的な地質の差もありそれが現在まで残されていることがわかる。
千徳城には敵を集めて駆逐する寄せ場や、郭と郭をつなぐ空堀を可変式の橋で行き来したのではないかと考えられる場所もある。また、山腹を人工的に削り取り帯郭(たいかく)で囲み、角度のきつい階段状にすることで攻め手の侵入を拒みながら、守り側は意図的に敵を誘導し追い込むようになっていた。これらの設計思想は後の石垣を組む平城(ひらじろ)に受け継がれより高度化してゆくことになる。
現在舘跡の帯郭や階段状の郭はほとんどが、山腹にある畑として利用されているが、改めてそれらを見ると人工的に削られ相当の量の土が人力で運ばれたことに驚かされる。