津軽石氏
提供:ミヤペディア
津軽・浅瀬石より汗石を持ち帰りこれを祀る
一戸千徳氏と血縁関係にある津軽石氏は、一戸千徳氏の出現に明確な説明がつかない限り正確な足取りは掴めない。なぜなら津軽石氏は一戸千徳氏初代・一戸政英(一戸信濃)の子孫とされるからだ。津軽石氏は一戸千徳氏同様、文亀元年(1501)以降に津軽石を統治しており、旧勢力を駆逐して新たに配置された一族ではないかとする考えが一般的だ。そうなると一戸津軽石氏がこの地に入る前、誰が津軽石を統治していたのか?ということになる。これに対しては一説によると一戸津軽石氏以前の統治者は沼里氏(詳細不明)と名乗る豪族がいたのではないかとされるがその詳細は不明だ。また、その時代は津軽石という地名はなかったと考えられている。
沼里の舘を捨て払川に新舘を築く
『東奥古伝』によると津軽石を拝領統治した一戸行政はその後、手狭な沼里の舘を捨て大永2年(1522)払川に新館を築いたとされる。その間に千徳の一戸政吉らと南部安信の津軽郡葛西一党征伐に参戦し報償として一戸政吉(千徳氏)は新たに津軽・浅瀬石を知行地として取得、一戸行政(津軽石氏)は初代一戸千徳氏だった父・一戸信濃の官途名(かんとな)「信濃」を名乗ることを許され「一戸津軽石信濃」と名を改める。『千徳舘興廃実記』ではこの葛西従軍の際、一戸行政は津軽浅瀬石の小祠より鮭の大漁を約束する「汗石(浅瀬石)」を持ち帰り清水が湧き出る場所に祀ったところ、翌年から鮭が大漁となりこれを機に地名を「津軽石」と改めたとしている。しかし、この逸話はあくまでも伝説であり津軽石という地名を意味づけるため後世に創作された節も否めない。ちなみに汗石を祀ったとされる神社は現在の岡田恵比寿堂であり、払川舘の北東、家臣の高平氏の舘に隣接している。