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宮古高等女学校

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目次

教育激動期に生まれた唯一の女学校

小山田橋から宮古一中を経て西町方面へ抜ける一本道に、かつての国鉄山田線と交差した踏切があった。踏切の名は『女学校通踏切』…。山田線が宮古まで開通した昭和9年横山の杜には宮古町立宮古実科高等女学校、後の岩手県立宮古高等女学校、通称「宮女」があったのである。宮女は大正末期に現在の宮古小学校に併設開校。宮古・下閉伊における唯一の女子中等教育を担う学校だった。そこでは英語や地学などの学問に加え将来の良妻賢母を育てるための家庭科教育が行われていた。女子中等教育やそれ以上の学問に対する門戸は狭い時代であったが、大正から終戦まで時代の波に翻弄されながら多くの女子が巣立っていった。

大正12年、宮古町立宮古実科高等女学校誕生

 近代日本の礎として明治政府は明治5年(1872)寺子屋や私塾を廃止とした新しい学校教育に関する法令として学制を公布した。その後、教育令、学校令などの多くの法律改正により、明治から大正にかけて学校教育の形はめまぐるしく変化した。
 明治12年(1879)に発布された教育令では初等教育を除き男女別学の形となった。この時代の中等教育において男子は旧制中学、女子は女学校へ進学することができた。その後、同24年(1891)に中学校令が改正され、同28年(1895)には高等女学校規程を制定、修業年限を6年、入学資格を修業年限4年の尋常小学校を卒業した者と定めた。この後も入学規定、修学年限、学習科目の変更など学校関係の法令は何度も改変されてゆく。
 そんな学校教育創生期とも言える時代であったが、大正9年(1920)高等女学校令が改定され、それまで都道府県のみに限定されていた公立の高等女学校設置が市町村においても設置可能となり全国的に高等女学校が増えることになった。宮古でも女子中等教育を担う学校として宮古町立宮古実科高等女学校設置が望まれ、大正12年(1923)3月23日に設置認可を受け同年4月16日に開校した。実科高等女学校の校舎は宮古尋常高等小学校(現・宮古小学校)に併設され、初代校長も宮古尋常高等小学校長であった中島源三郎氏が就任した。生徒数は創立時に同時募集した一学年・二学年の90名(応募者96名)であった。
 実科高等女学校の教育内容は修身、国語、数学、家事、裁縫、手芸、唱歌、実業、体育で各科目「乙」以上の成績をとらなければ修了できなかった。最初の修学旅行は大正12年(1923)で船(三陸丸)を使い釜石まで二泊三日で移動し釜石実科高女と交流した。その翌年は平泉まで七泊八日の行程だったが宮古~盛岡間は二泊三日の徒歩だった。
 大正14年(1925)には宮古尋常高等小学校から宮古尋常高等小学校旧館分教場(現・愛宕小学校)に移転、校長の中島源三郎氏が宮古町長選挙で当選したことから、二代校長として中居源助氏が就任した。
 この時期の高等女学校は「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」という理念を基本に女子中等教育がなされたが、女性の社会進出は現代に比べて制限されていた時代の教育だった。また、当時、高等女学校へ進学する女子は珍しく授業料も高かったことから一般家庭ではなく、ほとんどが実業家や名士の家の娘たちであった。

県立宮女の校歌作詞は土井晩翠

 昭和4年(1929)宮古町立実科高等女学校から町立を経て、県立高等女学校へと昇格したが宮女には校歌がなかった。そのため二代目校長・伊藤重蔵氏は昭和11年(1936)個人的に親交があった詩人・土井晩翠に作詞を依頼し、作曲を細川碧氏に依頼した。宮女の校歌は同年12月に完成し、翌年には晩翠自身が宮女を訪れ講演を行ったと記録される。それではそれ以前の実科高等女学校時代は校歌、あるいは応援歌等がなかったのか?という疑問が持ち上がるが今回の取材で集めた資料の中には昭和11年以前の宮女関係の歌についての情報はなかった。
 現在も卒業生らが集まっての宮女同窓会などで歌われ親しまれている校歌だが、意外と知られていないのが宮女の応援歌や行進曲として歌われた『宮古高等女学校行進曲』だ。晩翠は宮女に二つの作品を書き下ろしていたのである。また、晩翠が宮女を訪れた時、懇願されて作ったのが『早池峰山は西遙か、近き月山もろともに…』と現在も歌われる宮古小学校の校歌だ。

岩手県立宮古高等女学校校歌

           土井晩翠 作詞
           細川 碧 作曲

  一、 宮古高等女学校
     閉伊の川に沿ふ庭に
     其の葉われらの徽章なる
     千載古き大銀杏

  二、 見よ校の庭うるはしく
     整ふ姿わかき子ら
     常に謹み神人の
     合一思ふ子らのわざ

  三、 朝な夕なに拝みみて
     仰ぐ横山八幡社
     敬の一念とこしへに
     わが一生の基たれ

  四、 報恩貞淑精進の
     三つを標語にうらわかき
     子ら集まりて日々の業
     修むる校よああ幸く

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この楽譜は宮女同窓会によって復元制作されたもの

宮古高等女学校行進曲

          土井晩翠 作詞
          細川 碧 作曲

  一、 東の空の朝明けて
     学の窓の朗らかに
     打ち出す太鼓とどろけば
     一入(ひとしお)心 新たなり

  二、 水際たちて浦風に
     銀杏の旗のひるがへる
     大行進は 勢(きおい)つつ
     うねりと打ちてよどみなし

  三、 闇潮照らす灯台の
     光に舵を操りて
     逆巻く浪を乗り切らむ
     港は目路に迫り来ぬ

女学校にも戦争の足音

岩手県立宮古高等女学校時代

 昭和4年(1929)4月1日法令改正に伴い、宮古町立宮古実科高等女学校は宮古町立宮古高等女学校と改称、同年8月には県に移管し岩手県立宮古高等女学校と改称した。この時の校長は白亜紀の化石層として宮古層群の学会発表を行った八重樫七兵衛だった。八重樫は明治5年(1872)に鍬ヶ崎に生まれ、県師範学校を経て鍬ヶ崎尋常小学校で教鞭を取ったあと、明治34年(1901)から昭和3年(1928)まで県立水産学校の教諭をつとめ、その後に町立宮古実科高等女学校の校長となり、県立宮古高等女学校の基礎整備をした人物だ。
 県立となり新たに刷新された宮古高等女学校は四年制、定員200名となり三、四年生は旧町立実科女学校の二、三年生の希望者を編入試験を実施し合格者を組み込み、一、二年生は新たに募集し入学試験を経て入学させた。この時代には校舎建築についても地鎮祭を行っており旧舘の実科女学校を解体し宮町に新築したと思われる。また、同時に校旗、校章の制定が行われ女学校としての整備が進められた。
 県立宮古高等女学校校友会活動は、庶務部、文芸部、音楽部、運動部があった。文芸部から独立した音楽部はマンドリン合奏団を組織、さらに有志28人のメンバーで宮女ハモニカバンドを結成し演奏活動を行った。運動部では競技部と水泳部があった。競技部は校内競技大会の運営が主目的だったが、後に排球、籠球、庭球は大会で好成績をおさめ特に庭球は明治神宮中等学校体育大会を制したこともあった。水泳部は藤原須賀を練習場として校内水泳大会などを行っている。この他、音楽会や一般観覧客を招いての芸能展(文化祭)も行われ、軽食やバザー会場が賑わったという。
 昭和5年(1930)には校則、諸規定の改廃整備、翌年には下閉伊地区からの入学者に便宜を図るため寄宿舎が完成、白鴎寮(はくおうりょう・現いちょう公園付近)と名付けられた。しかし戦争の足音は近く昭和8年(1933)には天皇陛下の御真影を納めた奉安殿が設置されている。

太平洋戦争と女学校、そして終戦へ

 女子中等教育においてはなやかだった高等女学校は第二次世界大戦を機に一変してゆく。政府は昭和18年(1943)高等女学校規程を制定、これにより修業年限や入学資格が変更されたりして、宮古高等女学校では従来まで一学年約30人の1クラス編成から一学年50人の2クラス編成になっている。時代は日々足早に緊迫化しており、学校での花形イベントである運動競技会、芸能展、音楽会などはなくなり、教練、学徒勤労作業の強化、実業学校卒業期の繰り上げ、学校報国隊活動の強化、学徒動員等によって戦時下教育体制が急速に推し進められていった。
 このような情勢の中、修学旅行などは中止となり、高学年のクラス全員が川崎市の軍需工場に動員されたりもした。食料も不足し山口の雄又峠に開墾した畑だけでは足りなくなり女学校の校庭が開墾され畑になっていった。この時代は極端に物資が不足していたため、昭和18年(1943・第20回卒業生100名)を最後に卒業アルバムの制作も行われなくなってしまう。
 そして敗戦と戦後の混乱、民主化政策に従って定められた学校教育法の元で、高等女学校は旧制中学校とともに新制の高等学校へ転換された。昭和23年(1948)4月1日新たな6・3制実施学制改革により岩手県立宮古高等女学校は岩手県立宮古第二高等学校と改称、在学生を残したまま旧制高等女学校を併設、その後、在学生卒業と同時に「宮女」の灯は消えた。
 新生・岩手県立宮古第二高等学校も昭和24年(1949)4月11日、前年新校舎(現宮高)に新築移転していた岩手県立宮古第一高等学校と合併し、現在の男女共学の岩手県立宮古高校へと転身、岩手県立宮古第二高等学校校舎は、宮古市立第一中学校へ転用され現在に至る。
 戦後、大きく変わった教育制度のもとで昭和24年は第25回宮古高等女学校、第1回岩手県立宮古第二高等学校、併設した中学校の三種類の卒業式が同時に行われたという。

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校庭は畑となり、防災訓練の日々が続く

宮女卒業生に聞く

バレーボールに熱中した私の宮女時代 長洞チヨさん

 長洞チヨさん、旧姓・大森チヨさんは大正10年(1921)2月1日に千徳村根市の農家に生まれた。尋常小学校の頃から赤い袴に白い線が入った女学校の制服に憧れ宮女への進学を夢見ていたという。父親は学校の先生にさせたいと思っていたらしく、女学校進学を快く認めたという。
 宮女の試験に合格し一年生で通学をはじめた頃は、根市に一学年上の先輩がおり一緒に徒歩で通学した。宮女までは片道1時間はゆうにかかる距離であり陽の短い冬期間は真っ暗闇の道を歩くこともあったという。「今なら年頃の娘が真っ暗な道を1時間も歩くなど考えられませんが怖くはありませんでした。それでもクラブ活動で遅くなった時などは沢田の親戚の家に泊まったりもしました」と当時の思い出を語る。昭和9年(1934)には国鉄山田線が開通し四年生の一年間だけ汽車通学を体験したという。
 宮女での勉強では英語が一番好きだったというが、勉強以上に熱心だったのがスポーツだった。特に部活動では排球部に在籍、入学時は背が低かったが身長はぐんぐんと伸び四年生の時はキャプテンとなった。最後の試合は花巻で開催された中等学校体育大会岩手予選で自身が率いる宮女排球部は盛岡高女に敗れた。スポーツで名を知られた宮女だっただけにその悔しさは忘れがたく卒業アルバムに掲載されたクラスの寄せ書きにも長洞さんは「嗚呼、敗戦」と書き込んでいる。
 「私の宮女時代は勉強よりもスポーツと音楽にあけくれた青春時代でしたね」と笑う。

芝生が美しかった宮女の校庭 黒田靜子さん

 黒田靜子さん(84旧姓・平山)は昭和14年(1939)愛宕尋常小学校を経て県立宮古高等女学校に入学した。黒田さんが入学した年から宮女は2クラス、定員100名となっている。戦時色はまだ濃くなかったが兵隊への慰問文を書いたり毎月1日は生徒全員で横山八幡神社へ参詣し武運長久を祈願したという。また、授業では敵国語とされる英語は廃止となり勤労奉仕などが増えてゆく時代だった。それでも新入生の夏服は四年生が縫製する宮女の伝統があり、黒田さんも四年の時に後輩の制服を縫った。
 宮女の校庭には陸上のトラックがありその周りや校舎向かいの寄宿舎・白鴎寮、横山八幡の斜面が美しい芝生だったという。その芝生は生徒たちが手入れしており竹ベラを渡され全員で雑草取りをしたという。「草取りはつまらないけど、成績優秀な上級生とおしゃべりができて楽しかった」と笑う。
 物資不足の時代だったので芸能展でのバザー、楽しみだった修学旅行も中止になったという。それでも唯一、この年までは卒業アルバムは制作されており頁をめくると少女時代の思い出が蘇ると言う。
 「私らの時代はまだよい方でした、戦時下の宮女を経験された方たちはもっと大変だったろうと思います」と当時を振り返る。

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