攝待壮一
- せったいそういち【分類・芸能】
- 大正~平成:大正12年~平成16年(1923~2004)
前黒森神社氏子総代長・黒森神楽保存会会長
黒森神社の維持管理をはじめ環境整備、毎年の例大祭運営及び、毎年春に下閉伊上閉伊を巡業する黒森神楽の保存会会長として黒森神社を総合的に支援してきたのが、前・黒森神社氏子総代長、攝待壮一だ。
黒森神社は宮古市街北西の黒森山(約300m)の中腹に鎮座し、南北朝時代にはその存在があったとされる当地方きっての古社だ。神社には山伏神楽として約300年の歴史がある黒森神楽があり、神楽衆たちが黒森神社を起点に南廻り、北廻りと毎年交互に巡業し沿岸の信仰を集めてきた。そんな黒森神社の麓の旧山口村に生まれた攝待壮一は誰よりも黒森神社を愛してやまなかった。
攝待壮一は大正12年(1923)3月1日、旧山口村に生まれ当時の山口分教場を卒業した。家業の農家を継いだが太平洋戦争に招集され従軍。幸いにも静岡で終戦となり復員。生家の山口へ戻り家業の農業、果樹園業、養鶏業に従事した。昭和45年、宮古市は山口団地を大規模造成した。それに合わせて住宅地内に山口ショッピングセンターをオープンさせる。昭和58年から、以後、約20年間、黒森神社氏子総代長、黒森神楽保存会会長として神社整備と民俗芸能の発展に尽力してきた。
攝待壮一は黒森神社と周辺の歴史にも深い関心をもっていた。仕事の手が空けば過去に郷土史家たちが発表した黒森関係の報告書、論文、随筆などを冊子にまとめたり、現在はオリジナルが現存しない『長根寺物語』など貴重な冊子の復刻発行をした。また、自らが取材した山口の民間信仰にまつわる習わしや、点在する石碑を紹介した冊子など多くの資料を作成し、自費出版してきた。それらは黒森神楽をはじめ昔からの山口の暮らしなど、あらゆる角度から黒森神社を考察する貴重な資料となっている。
昭和50年頃から平成にかけて毎年春、黒森神楽の巡業を前にして行われる神事である「舞い立ち」では南・北廻りにかかわらかず攝待宅が最初の神楽宿をしていた。民家の宿で演じられる昔ながらの夜神楽には多く客と、大学などからたくさんの研究者が訪れた。それらの人たちと囲炉裏をかこんで黒森神社について語っていた。
近年、氏子総代長としての最後の仕事になったのが黒森を主題に詠まれた詩歌を石碑で残そうという黒森文学碑建立だった。この仕事の後、体力的な面から長年続けてきた黒森神社氏子総代長を辞退、その後平成17年、黒森神楽が国の無形文化財指定となったが、その報を聞くことなく平成16年3月、83歳で没した。神楽衆は悲願だった国指定の吉報を位牌の前で報告した。