駒井良子
提供:ミヤペディア
- こまいりょうこ
- 大正~昭和:大正2年~昭和30年(1931~1955)
地方文化として茶道普及に努めた
駒井良子は大正2年(1931)12月9日、父弥兵衛、母カツの次女として宮古市新町の醸造業を営む商家に生まれた。実兄には文学活動を経て駒井写真研究所、戦後の陸中海岸国立公園指定に尽力した駒井雅三がいる。
宮古小学校、県立宮古高等女学校を卒業し、志あって茶道裏千家・今日庵(こんにちあん)川守田宗節(かわもりたそうせつ)氏に師事し茶道を究めた。当時新町にあった自宅二階には小さな茶室があり多くの門下生が集まっていたという。
駒井は茶道とその精神を普及させるため自宅だけでなく、宮古高等学校田老分校、山田高校の茶道部、宮古下閉伊各地の青年学校、青年会、婦人会等で広く茶道を指導した。また、茶道における地方文化興隆に携わるかたわら、自らが卒業した県立宮古高等女学校が県立宮古高校の母体だったこともあり、宮古高校の同窓会会長を長年にわたり歴任している。
しかしながら昭和30年、不幸にも白血病という不治の病に冒され県立宮古病院に運ばれた。当時は白血病に対しての明確な治療方法が確定していなかったため、衰弱してゆく駒井のため多くの門弟や知友が集まり何日にも及ぶ輸血治療が行われたが、昭和30年6月8日死去。42歳であった。葬儀は後日、常安寺で盛大に行われ宮古高校の在校生らも参列した。
駒井良子が没した翌年の昭和31年、命日でもある6月8日に門弟、知友らは地方文化において茶道の普及に尽力したとして、常安寺参道に駒井良子先生の碑を建立。碑には輸血ために訪れる門弟や知友に対し病床で詠んだ歌が刻まれている(下記)
数ならぬ 我が身にかほどもろ人の
愛のちしほ乃 つづくうれしさ
駒井良子が築いた茶道の精神は実妹の山本三子(ミネ・旧姓駒井)が受け継ぎ山本社中として継続した。