義経北行伝説年表
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巧みな時間軸配分に隠された空白の時間
義経北行伝説の第一人者・佐々木勝三はその著書『義経は生きていた』で暗雲立ち込める平泉をいち早く後にして、蝦夷地を目指した義経一党の足跡をたどり、各地に残された逸話・伝説を紡ぎながら、義経北行に特化した年表を作成している。この年表によると、史実として義経が高舘で泰衡に討たれた時、義経一党は宮古市の黒森神社にいたことになる。
文治四年 | 1188 | 4・18 | 義経一党北へ渡るため米を集めはじめる(亀井文書) |
4 | 義経一党、密かに高舘を去る。長部沼の佐藤基治宅の役邸に入る | ||
4 | 義経一党、東街道を北上、観福寺弁慶屋敷、岩屋戸山多聞天、次丸 源休舘を経て、人首、五輪峠、物見山、判官山通過、気仙に入る (小谷部氏著書、江刺郡史他) |
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5・4 | 泰衡、平泉着の勅使一行を丁寧に扱う(吾妻鏡) | ||
5 | 藤原一門の者、勅使一行を舘詰めにし、一歩も外出の機会を与えず | ||
6・14 | 気仙郡唐丹村修験、大学院にいた修験者死す | ||
7 | 義経一党、気仙郡を経て上閉伊に入る | ||
7 | 常陸坊海尊、唐丹村に現れる。亀井社創建(大学院家伝、岩手県土史) | ||
8 | 義経一党、下閉伊郡に入る(佐藤家系図より推考) | ||
9 | 義経一党、下閉伊郡大沢村を去る十二神山を越える(佐藤家系図、判 官家家伝) | ||
9 | 義経一党、長沢村の竹下家先祖に立ち寄る(竹下家家伝) | ||
9 | 義経一党、横山八幡宮に参拝する(横山八幡宮記) | ||
9 | 義経一党、黒森山山中にて大般若波羅密多経を写経奉納する(南部封 域志) | ||
10 12 | 陸奥、出羽国司に勅して源義経捕らえる(吾妻鏡、国史大年表) | ||
文治五年 | 1889 | 3・9 | 泰衡の請文、京都に着く。義経を尋ねる旨を載せる(能保消息) |
4・21 | 義経を追討すべき由、宣旨下る | ||
4・30 | 平泉で偽戦が行われ、杉目太郎行信、義経に代わって討ち死にする( 杉目系譜、大木戸合戦記) | ||
5・1 | 泰衡、飛脚を鎌倉に走らせ、義経誅滅(偽義経)を言上させる | ||
5・22 | 泰衡の飛脚鎌倉に到着、義経誅滅のデマを言上する(三吉大明神御伝 記照) | ||
5・29 | 能保、義経誅滅を九条兼実に報告 | ||
5・29 | 兼実、このこと日記に書く(玉葉) | ||
6・13 | 義経(偽義経・杉目太郎)首、腰越に持参する | ||
6 | この時、義経一党は黒森山中にあり(南部封域志) | ||
6 | 義経、判官舘にいる(判官稲荷縁起) | ||
7・19 | 頼朝、泰衡征伐のため鎌倉を発つ | ||
7 | 義経、茂市村、日蔭平に至る(東奥古伝三閉伊の巻) | ||
8・25 | 泰衡、鎌倉軍に敗れ北方に逃げる | ||
9・3 | 泰衡、北秋田郡比内において、郎党、河田次郎の裏切りで殺される | ||
9・6 | 泰衡の首、八寸の鉄釘で打ちつけられ、梟首となる(吾妻鏡) | ||
9・28 | 頼朝、平泉を発ち、鎌倉へ向かう | ||
建久元年 | 1190 | 義経一党、二又の出雲氏に粟を借りる | |
黒森山中にて般若経を写経する | |||
臼杵に至り、峠神へ登る(田代村口碑) | |||
黒森大明神に般若経を奉納する(目時文書、成ヶ沢文書) | |||
建久二年 | 1191 | 4 | 義経一党、宮古を去って北方へ向かう |
田老村乙部新田の吉内家に立ち寄る(吉内家家伝) | |||
普代村卯子酉山に籠もり断食をして海神を勧請する | |||
藤九郎盛長、義経を討たず、協力する(横田文書、藤九郎神社伝) | |||
義経、普代村で稗二升を借りる(中村文書) | |||
鈴木三郎重家、普代村まで義経一党を見送る(近内鈴木家家伝) | |||
畠山重忠の軍、九戸郡久慈で義経を待つ | |||
畠山重忠、義経を北方に逃がす。空矢を放つ。その矢を諏訪神社に祀る(諏訪神社縁起) | |||
義経、泉三郎忠衡、九戸郡久慈に至り、源道を通過 | |||
忠衡の子、泰行、久慈の吉田に残留する(中野文書) | |||
鈴木三郎重家、閉伊港に残り、重三郎と変名して横山八幡宮の神主となる(横山八幡宮縁起) | |||
義経一党、八戸、舘越にいる(類家稲荷縁起) | |||
義経、京都より藤ノ森稲荷を勧請する。のち類家稲荷大明神と号す(類家稲荷大明神縁起) | |||
建久三年 | 1192 | 高舘に移る(類家稲荷縁起) | |
尾形三郎惟義、頼基と称し、閉伊郡渋田にくる | |||
小田に田をひらく(類家稲荷縁起) | |||
毘沙門天を祀る(神社調査) | |||
般若経の写経(徳城寺縁記) | |||
毘沙門天を祀る(神社調査) | |||
般若経の写経(徳城寺縁記) | |||
京ヶ原、柏崎を命名(類家稲荷縁起) | |||
建久四年 | 1193 | 高舘に居住する | |
北の方、病死。京ヶ崎に葬る | |||
般若経写経 | |||
青森、北津軽郡十三湊の秀栄、死す(青森県史) | |||
秀元、父・秀栄の後を継ぐ(青森県史) | |||
建久五年 | 1194 | 義経一党、野内、安方、油川を経て十三湊、壇林寺にくる(可足記、青 森県史、貴船神社碑文、円明寺寺伝) | |
建久六年 | 1195 | 義経一党、三厩村竜飛から蝦夷島に渡る 南部光行八戸にくる(聞老遺事) | |
承元二年 | 1208 | 義経と静の子、義高、奥州閉伊郡にくる、のち閉伊に封じられ田鎖 に居住する(田鎖系図) | |
※能保消息(よしやすしょうそ)能保という人物が書き残した日記のような文書
※梟首(きょうしゅ)さらし首のこと
※予州(よしゅう)伊予守。義経が官位とともに授かった官途名
※腰越(こしごえ)鎌倉にある地名
※神社縁起(じんじゃ縁起)神社創建の成り立ちを書き記した文書