義経スポット年表
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義経の生きた時代
平治元年(1159)源義朝の九男として生まれた義経は、平治の乱で父を失い、母、常磐とともに平清盛に捕らえられ、7歳の時に鞍馬寺へ幽閉される。やがて義経は自分が源氏の血を引くと知ると、平氏討伐に備え密かに剣術の修行をはじめる。これが発覚し寺を追われた義経は遮那王と名乗り、後に金売り吉次に伴って奥州へと向かう。
平治元年 | 1159 | 源義朝の九男として義経生まれる |
平治の乱、藤原信頼処刑 | ||
永暦元年 | 1160 | 平清盛、頼朝を伊豆に流す |
承安二年 | 1174 | 源義経、奥州に向かう |
治承四年 | 1180 | 頼朝、平氏を討たんことを謀り密に東国の家人を招く |
義経、奥州よりくる | ||
養和元年 | 1181 | 平清盛、病死 |
院宣を陸奥の住人藤原秀衡に下し、頼朝を討たせる | ||
藤原秀衡を陸奥守に任じ、源氏を討てと命じる | ||
陸奥藤原秀衡、官軍に属すべき旨状を提出する | ||
寿永二年 | 1183 | 義仲挙兵、京都に入り平氏追討の宣言 |
義仲、密に平氏に和睦の書状を送り、相和し頼朝を討たんとすることを勧める | ||
頼朝、義経に兵6万を与え木曽義仲を討たせる。義経勝利し京へ入る | ||
元暦元年 | 1184 | 義仲、粟津にて戦死。31歳 |
宣旨を頼朝に下し、平氏を追討させる | ||
平氏、安徳天皇を奉じて福原に入る。城を一ノ谷に構える | ||
義経、自ら精鋭を率いて鵯越に向かい奇襲にて勝利、陣営に火を放つ | ||
平氏敗れて安徳天皇を奉じて舟で屋嶋へ敗走 | ||
頼朝、義経に河越重頼の娘を娶らせる | ||
文治元年 | 1185 | 義経、平氏討伐のため京を発つ |
義経、平氏の軍と壇ノ浦の海上で戦いこれを破る。安徳天皇崩じ、神剣を海中に 失う | ||
義経の鎌倉入り許されず | ||
頼朝、義経の所領24カ所を取り上げる | ||
文治二年 | 1186 | 静、義経の子、男子出産、頼朝、命じて由比ヶ浜に捨てさせる |
義経、逃れて陸奥平泉に至り秀衡に依る | ||
文治三年 | 1187 | 頼朝により、院宣が下り、秀衡が義経を庇護していると責められるも、秀衡、異 心なきこと陳謝、使いを京に送る |
藤原秀衡没し、遺言を遺す | ||
文治四年 | 1188 | 宣旨を下し、藤原基成、泰衡に義経を捕らえさせる |
義経、宣旨は偽りと唱える | ||
文治五年 | 1189 | 泰衡、義経を衣川に襲い討つ義経31歳、首を鎌倉に送る旨頼朝へ使いを出す |
頼朝、泰衡追討の宣旨を賜ることを請う | ||
泰衡、弟の忠衡を殺す | ||
宣旨及び院宣を頼朝に下し泰衡を追討 | ||
泰衡、蝦夷へ逃れるため比内郡に入る。郎党の裏切りで殺される | ||
頼朝、志波郡に至る | ||
泰衡の弟、高衡降伏する | ||
建久二年 | 1192 | 頼朝、征夷大将軍に任ぜられる |