佐々木勝三
- ささきかつぞう【分類・郷土史家】
- 明治~昭和:明治28年~昭和61年(1895~1986)
義経研究の第一人者
昭和32年に出版された『義経は生きていた』(東北社)は、古くから当地方に定着していた義経北行伝説に興味深い問題を投げかけることになり、一躍、著者として世に知られるようになったのが佐々木勝三だ。佐々木勝三は、1895(明治28)年宮古市横町の商家の長男として生まれた。岩手県立水産学校(現・岩手県立水産高等学校)を卒業後、岩手高等師範に入学、さらに明治大学商学部の進み、恩師に請われてアメリカ・ワシントン州立大学に留学した。大正期の宮古において、大学に進学する学生はほんの一握りしかいなかったが、さらにアメリカ留学を実現した勝三の快挙は、町に提灯行列が並んだほどで、宮古の人々を驚喜させるに充分なものであった。4年の留学を終えて帰国。昭和6年4月には東京高等師範学校研究科(現筑波大学大学院)に学士入学し、公民教育の研究を行い、昭和8年にはアメリカで見聞した世界経済の動向を伝える国際経済学専任講師として母校明治大学の教壇に立った。その後第二次世界大戦によって焦土の東京を後に20年9月に郷里宮古に戻った。まもなくしてアメリカ留学経験があることから宮古市進駐軍受入本部事務長に就任した。
彼の終戦までの半生は、国際経済学の研究に情熱を傾ける学究の徒であったが、戦後の半生は義経伝説を中心とした郷土史の研究だった。昭和23年から宮古水産高校、26年からは宮古高校で教鞭を執りながら、義経研究に没頭して行った。郷土の黒森神社や判官稲荷神社の由来に触れ、『吾妻鏡』の伝える義経の平泉他界の定説に疑問を抱き、伝承を検証する取材に奔走。多くの遺品や口碑、あるいは地域住民の言い伝え等数多く採集し、その結果『義経は生きていた』の初版を上梓した。これにより悲劇の英雄・義経の隠された歴史に光をあて、きわめて興味深い内容に時代作家たちを驚喜させた。
その後、『安宅の関 義経・弁慶北行の史跡』(S37年観光事業社)、『源義経蝦夷亡命の記(上)(下)』(S45、47年大町北造共著・勁文社)『成吉思汗は源義経』(S52年大町北造・横田正二共著勁文社)、『NHK歴史への招待第5巻無敵義経軍団』(H2年日本放送協会出版)、『義経伝説の謎』(H3年大町北造・横田正二共著・勁文社)などの著書を残し、1986年91歳で没した。時空を超え、今となっては霧の中に包まれる義経伝承だが、平泉から遠野、陸中や津軽、北海道に至るまで残る義経の足跡を世に知らしめた事は、佐々木勝三の半生を費やした業績といっても過言ではない。
義経研究に半生を捧げた昭和の歴史家・佐々木勝三
佐々木勝三は宮古市出身の義経研究家として義経平泉不死説を唱え、著書『義経は生きていた』『成吉思汗は源義経』(共著)で戦後の義経北行伝説のブームを巻き起こした郷土歴史家だ。勝三は明治28年、宮古市横町に生まれ、宮古高等小学校、岩手県立水産学校を経て、大正6年に岩手県師範学校第二部を卒業、のち明治大学商学部を経て、同8年、北米ワシントン大学に留学、昭和2年帰国、明治大学商学部教諭を経て、戦時中、疎開のため郷里宮古に帰郷。戦後は宮古市進駐軍事務長、県立水産高校、宮古高校の教諭を歴任、勝三が編著者となって昭和39年に発行された『横山八幡宮記』編纂のため多くの郷土歴史家と接触している。
勝三が昭和53年発行の本誌に寄せている自伝的連載小説によると、勝三は戦後間もない昭和20年代、当時の山根正三宮司の代に横山八幡宮社務所に編纂室を設けそこで古文書の解析と研究に没頭している。編纂室には連日の郷土歴史愛好家の来訪をはじめ、市内の旧家からでてきたという膨大な文書が集められたという。そんななかで昭和9年発刊の『宮古港大観と郷土の名所旧跡』(宮古日日新聞社刊)において「黒森神社御陵説」を唱えていた郷土史家・伊香弥七が自らが研究のために集めた資料を携えて現れる。伊香の持ってきた文書は多岐にわたったがそのなかに高橋子績の『南部封域志』『源廷尉義経』『黒森山稜誌』等があり、この文書の解析にあたった勝三は義経不死説のきっかけを掴むことになる。
勝三は当初、横山八幡宮の歴史掘り起こしに没頭しており、伊香が持参した義経に関係する文書には惹かれなかったが、横山八幡宮の歴史が書かれた文書のなかにも義経や弁慶が登場することから、義経は平泉で討たれず、落ちのびこの地を通り北行したのではないかと考えるようになる。ちなみに勝三が影読み解いた古文書は『南部封域志』『横山八幡宮縁記』等でありどちらも江戸時代の漢学者・高橋子績の著書だ。
勝三はその後『横山八幡宮記』編纂と同時進行で、宮古下閉伊をはじめ上閉伊など県内の義経伝説が残る遺跡を訪ねてはそれらを丹念に取材するとともに、古老が語る地元の口伝を汲み上げ、独自の理論と推測で現在の義経北行伝説を組み立てた。のちそれら伝説の足跡は県観光連盟により「義経北行伝説コース」として紹介され義経ブームを巻き起こすことになる。その後も精力的に義経研究を続けていた勝三は、昭和52年北海道出身の成吉思汗研究家・大町北造、横田正三との共著において「蝦夷地に渡った義経がその後大陸へ渡り成吉思汗研となったのではないか」という説を唱え『成吉思汗は源義経』(共著)を刊行、一大センセーショナルを巻き起こす。
若くしてアメリカに渡り最新の経済学を学びながら戦後の半生を義経研究に費やした勝三は1986年91歳で没している。