穴乳観音
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鬼九郎行重の妻が一子を産み落としたとされる岩屋
天正11年(1583)1月11日、血族の一戸千徳氏に城主を謀殺され、同14日には払川舘が落城する時、津軽石氏の老家臣・荒川左助は城主・一戸鬼九郎行重の妻とその一子を助け出し荒川の奥福士に匿ったという。千徳氏の払川舘侵攻は、城主を失い弔い合戦に乗じて争乱を企てたことに対してであり、城主亡き後の津軽石氏に対しての追従はなかったと考えられるが、戦国時代の戦において一族郎党皆殺しは常套手段であったことから、奥方と一子は秘密裏に匿ったものと考えられる。
一説によれば、鬼九郎の妻と、その子は荒川の奥にある岩屋に隠れたとされる。奥方はその洞窟内で男子を出産し事切れたという。出産に際し奥方は普段から信仰していた十一面観音に祈り「亡き人を 忍ぶがうえにおくつゆの きえしにつけて ぬるる袖かな」と歌を残したという。以来この深山の岩屋は穴乳観音と呼ばれ、岩屋の中にある丸い乳房のような岩に滴る水は難産や乳不足に女性に御利益があると信じられている。岩屋入り口には鬼九郎行重と妻の墓碑があり、宝暦の頃この岩屋を霊場として開いた牧庵鞭牛が建立した観音像があるという。