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津軽石村

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目次

鮭水揚げ日本一を記録した鮭のふるさと

津軽石村は西を花輪村、北を磯鶏村、南は豊間根村に接しする。面積は2165方里、戸数は475、人口は男1682、女1591で、枝村に赤前がある。(大正11年)
津軽石村はその昔、渋留村と称し、文治年間(1185~1190)にはすでに小さな集落があったと伝えられる。のち室町時代の永正年間(1504~1521)に一戸千徳氏の一族が総福沢に舘を築いた。この舘は沼里舘と呼ばれたが後年捨てられ、大永2年(1522)払川に払川舘を築き城下町を従えていた。この一族は津軽石氏として近隣の赤前氏も従えていたが、鬼九郎行重の代に宗家千徳氏と諍いが生じ、千徳城大手門にて謀殺された。戦国時代末期、南部氏が閉伊を統一してからは南部氏の所領になり、その後慶長元年(1596)には船越助五郎の所領となり、後、宮古代官所の支配を受けて明治維新を迎えた。

鮭川と津軽石

津軽石川の下流にあり、北に金浜、八木沢へ続く旧浜街道があり、津軽石稲荷神社を迂回した旧道に一里塚があった。古くは津軽石下流域一帯を「渋留」と呼んだが、いつの頃からか津軽石と呼ばれるようになった。伝説によると旅の僧侶が津軽から小石をひとつ携えてきてその小石を津軽石川に投げ入れたところそれからおびただしい鮭が上るようになったことに由来するとしている。しかし、人為的行為から鮭遡上の大小に変化が発生するはずはなく、津軽石の地名の発生は別なところにあると考えられる。
一説によれば青森県津軽地方には研磨すればピンク色に輝く「津軽石(玉髄)」という特産の鉱物があり、この鉱石と同等の鉱物が現在の津軽石地区、あるいは根井沢あたりで産出したことに由来するとも考えられる。この鉱石は江戸時代すでに知られており事実、根井沢では現在も珪石などを産出するが、以前に津軽石という鉱石に似た鉱石を産出したため津軽石と呼ばれるようになった可能性もある。加えてこの鉱床から湧き出た特殊な水が津軽石川に流れ込み、その成分をかぎ分けて多くの鮭が遡上するのではないか?とも考えられる。

恵みと被害をもたらす津軽石川

安土桃山時代末期の慶長元年(1596)9月15日の南部重直知行宛行状によれば、当時の津軽石の石高は480石でこれを統治していたのは船越助五郎とされているが、寛永4年(1627)には山崎小五郎が津軽石蔵入高530石余の代官に任命されている。天和2年(1682)になると310石余、享保3年(1718)の検地によれば371石余となっている。しかし、堤防のない津軽石川は暴れ川であり田畑は風雨、洪水の被害を受けることが多く、この時期以来、洪水等で耕地を失い、安永5年(1776)には石高は252石余に落ち込む。享和3年(1803)の民家数などを記載した仮名付帳によると、家数は178戸、うち駅場(伝馬の駅・馬の駅)津軽石町39戸、枝村の根井沢に11戸、荷竹に22戸、藤畑に20戸、沼里に5戸、払川に15戸、法ノ脇に12戸。当時の運搬手段であった馬は264頭であった。

鮭漁と津軽石

宮古湾奥に注ぐ津軽石川は古くから鮭が遡上する川として鮭留漁が行われてきた。鮭留漁の起源は古く天保年間(1830~44)の鮭留漁日記書留帳(盛合家文書)によれば、その起源を弘法大師伝説と結びつけている。江戸以前は村地頭と地区百姓の共同体で経営されていたと考えられるが、江戸期に入ると南部藩運上金を納めており、寛永12年(1635)の古文書(豊間根文書)に、上流の荒川増水のため土砂が流れ込み下流の津軽石が洪水となり鮭留漁も打撃を受けたことが記録されている。そのため元禄9年(1696)に河口に堆積した土砂を取り除く普請工事が行われた。しかし、同年またしても大水が出てせっかくの工事も水の泡となっている。
同じ頃、宮古湾に面した各村では大型定置網漁が盛んになり、津軽石村に隣接する金浜村、赤前村との間に紛争が起きている。津軽石では各村が湾内に設置する定置網のためにいちじるしく鮭の遡上が妨げられ、このままでは鮭の産卵にも影響すると宮古代官所に訴訟を申し立てたが、代官所でも裁定できず、結局、隣接する村は定置網漁をやめ、その代わりに津軽石川の漁業権の一部を譲渡することで妥協している。幕末にはこれまで漁業権を持っていなかった分家百姓たちが新たに漁業権を要求し、一揆が起こった。この紛争は明治中期まで尾をひく抗争となったが、明治35年(1902)津軽石漁業協同組合が成立し、同38年には鮭の人工ふ化場が開設し現在に至る。

一津軽石が旗印

一津軽石という言葉について津軽石出身の元県議で「北辺の記者」の著者、故盛合聡氏はその本のなかで次のように書いている。

  • 津軽石村には昔から三陸沿岸の中で一種特有の気風が流れている。一津軽石、二千徳、三蟇目、四門馬、五田老―と続く。諺は今日でもなお、地元で使われることがしばしばではあるが、この旧村単位の順番は一体何の順序なのか諸説があるが、意地っ張り、きかん坊、負けず嫌い―を現すのではないか、というのが三陸地方の通説である。昔、盛んに行われた下閉伊郡下の青年対抗競技会の順位から発したものだろうが、いつの間にか津軽石人の気質に密着して、地域の少年教育の骨組みを形成し、さらに地域を誇示する一種の旗印となって、自らも好んで使う言葉に変質してしまったものだろう。

この一例が示すように津軽石の先人である山崎鯢山、池峰(盛合綏之)とも郷土の名山をもって自らを号し、この村は文化面でも近郊で一番を呼号したものであったようだ。また、津軽石小学校の校庭には「意地」と刻まれた石碑がある。この石碑の書は元津軽石村長の中嶋氏のもので、津軽石村の気概というか、どんなことがあっても他には負けない意地が旗印であったことを物語る。これが混同し「一津軽石」=「意地津軽石」になったとも考えられる。

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