宮古市
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宮古市誕生。県下第三番の市として市制施行
紀元二千六百一年紀元節の昭和16年(1941)2月11日、宮古町、磯鶏村、山口村、千徳村が合併して宮古市が誕生した。岩手県内3番目の市となり、人口3万3千人で新時代のスタートを切った。
合併と市制施行は、昭和15年5月、新任の山内県知事が宮古町を初巡視の際、発展が目覚ましい宮古地方振興の前提として、隣接村の合併を強く提唱したことに端を発した。同年8月宮古町議会が、合併促進を表示、10月山口村協議会、11月千徳村会で決議された。磯鶏は11月反対決議を上げたが、懇談等によって12月半ば磯鶏村会も賛成に踏み切った。合併した時の人口は次の通り。
- 宮古町(町長菊池長右衛門)4505戸/23200人
- 山口村(村長佐々木文堂)647戸/3680人
- 千徳村(村長石川耕一)286戸/1942人
- 磯鶏村(村長上館常治)683戸/4360人
- 合計/面積127平方キロメートル 6121戸 33182人
新宮古市誕生に伴い、初代市長に小原正二支庁長を置き、5月26日、公選による初代市長としてそれまで宮古市議会議長だった菊池長右衛門が就任し市議会には30人の議員が選ばれた。当時の立候補者は54名で、当選者の地区の内訳は宮古24人、山口3人、磯鶏2人、千徳1人だった。
珍しい合併方式・財産区設定
宮古市誕生の合併に当たっての難点は、3村の経済力が各々違う事だった。そこで「財産区設定」という、珍しい合併方式をとることによって話がまとまったのである。その内容は次の通り。
- 各村の村有財産(山林を主として、山口村百六十町歩、千徳村三百十一町四反歩、磯鶏村十五町歩)は各村民の共有財産として認める。
- 旧村の共有財産から生ずる利益は、旧村に還元する管理方式として
- 旧村の地域に財産区を設定する。
- 財産区といえども市有財産だから、市長が管理する。
- 財産区は、各財産区議会を設けてきめる。
昭和の大合併・新たに周辺4村を加え、大宮古市へと変貌
昭和30年(1955)政府の方針で全国的に市町村合併が行われた。宮古市では津軽石村、花輪村、重茂村、崎山村を合併した。地域の賛否は様々であったが、大きな問題もなくまとまった。当時の町村合併計画の県議案に対する意見は次のようだった。
- 宮古=賛成、刈屋、茂市、豊間根を含む一市七ヶ村を考慮
- 崎山=賛成、全面的に編入合併、早期実現を要望
- 花輪=無回答から賛成に進行
- 津軽石=豊間根、重茂との三村合併から、市合併に変更
- 重茂=賛成多数、一部反対から独立希望に、更に合併
このようにして合併が実現、昭和30年3月、4村の編入が県告示で決まり、4月1日施行となった。当時の人口は次の通り。
- 宮古市(中屋重治市長)6367戸/39255人
- 崎山村(畠山和夫村長)251戸/1533人
- 花輪村(元田珪三村長)484戸/3703人
- 津軽石村(中島覚之助村長)807戸/4326人
- 重茂村(重茂徹夫村長)509戸/2492人
- 計/8841戸/51246人
陸中海岸国立公園誕生 高度成長に向かって宮古市は加速
昭和30年4月1日に隣接4ヶ村を合併し、新宮古市が誕生した。この時代から宮古市は沿岸中核都市に向かって歩を進めた。それに弾みをつけたのが陸中海岸国立公園指定だった。戦前戦後からの指定運動が実り、昭和30年5月2日、陸中海岸国立公園が誕生。その中心地、浄土ヶ浜では3万人が参加して記念式典と祝賀会が開かれた。大宮古市と国立公園誕生をみた昭和30年、これを機に宮古は現在の形を造りあげてきた。