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山口村

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(山口川沿いに拓けた、宮古町と最も関係の深い農村)
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山口村は東を[[崎山村]]、西を茂市村、刈屋村、南を[[千徳村]]、[[宮古町]]に、北は田老村、有芸村に接している。面積は5074方里、戸数313、人口男1280、女1119、枝村として近内、田代がある。(大正11年)<br>
 
山口村は東を[[崎山村]]、西を茂市村、刈屋村、南を[[千徳村]]、[[宮古町]]に、北は田老村、有芸村に接している。面積は5074方里、戸数313、人口男1280、女1119、枝村として近内、田代がある。(大正11年)<br>
 
山口村の地名の由来は[[黒森神社]]及び[[黒森山]]へ登る登り口の意味があると伝えられる。[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3 鎌倉時代]初期、[[根城]]に築城し当地を支配したという[[閉伊頼基]]の分家にあたる小笠原某氏の所領だったとされるが、戦国末期に[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F 南部氏]が閉伊を統一してからは南部氏の所領になり[[宮古代官所]]の支配下となったまま[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0 明治維新]に至る。田代は中世の時代、田代安芸という豪族が舘を築き支配しており、近内も同時代[[千徳氏]]の一族であったとされる近内某氏が支配していたため、両地区ともそれら豪族の名がそのまま地区名になったと考えられる。
 
山口村の地名の由来は[[黒森神社]]及び[[黒森山]]へ登る登り口の意味があると伝えられる。[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3 鎌倉時代]初期、[[根城]]に築城し当地を支配したという[[閉伊頼基]]の分家にあたる小笠原某氏の所領だったとされるが、戦国末期に[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F 南部氏]が閉伊を統一してからは南部氏の所領になり[[宮古代官所]]の支配下となったまま[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0 明治維新]に至る。田代は中世の時代、田代安芸という豪族が舘を築き支配しており、近内も同時代[[千徳氏]]の一族であったとされる近内某氏が支配していたため、両地区ともそれら豪族の名がそのまま地区名になったと考えられる。
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== '''地名の起こりは黒森山の入口''' ==
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 宮古市街地の西方から北西に隣接する山口地区。昭和16年(1941)に宮古町・磯鶏村・千徳村などと合併して宮古市となったが、それ以前は山口村に属していた。
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 旧山口村は山口と田代・近内から成っていた。田代・近内は明治22年(1889)の町村制実施とともに合併して山口村になったもので、それ以前は独立した村だった。
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 山口の地名は、明治以前は黒森権現社と呼ばれていた、今の黒森神社が鎮座する黒森山の「山の入り口」からつけられたものである。
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== '''一石様にあった笠間の舘''' ==
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 山口はもともと山口と笠間という二つの集落からなっていた。山口は山の入り口であった周辺集落で、それに対し笠間は、閉伊川北側の河口一帯を指した名称で、集落の中心は現在の舘合町や鴨崎町あたりにあった。
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 笠間は閉伊川河口での交通の要所であり、正応元年(1288)に閉伊三郎佐衛門尉光員が庶子余一員連に笠間の地を与えたと記録にある。しかし、慶長16年(1611)の大津波によって集落が全滅した。これにより笠間の名前は消えたが、その跡には、永和2年(1376)建立の「一石一字」とよばれる経塚の碑が建っていて、僅かに当時に名残りをとどめている。
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== '''山口の旧家・川原田家と小笠原家''' ==
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 山口の集落がいつ頃出来たかははっきりしないが、今ある山口の家の中で、最も歴史が古いものは川原田家か小笠原家だと言われている。
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 川原田家は、代々黒森神社の別当をしていた家であり、建久元年(1190)の棟札に「別当、川原田右京助道」の名があり、これが川原田家の初代ということである。
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 小笠原家はもともと「山口殿」と呼ばれて山口を治めていた家の系統であり、屋号「井戸頭」の小笠原家には建武元年(1334)の銘が入った鉄鉢が保存されている。
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 また、応安3年(1370)の棟札に「小笠原太郎三郎」の名前が見える。これらのことから、遅くとも鎌倉時代末にはある程度の集落が出来上がったと想像される。
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== '''増坂勲氏の描く山口風景''' ==
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泉町在住の画家・増坂勲氏は山口川を主体とした山口風景の作品を描いている。絵は水彩で独特のタッチで舘合の山口橋から黒森山に向かっての景色が描かれ、いつも通り慣れた風景なのに新鮮な構図として目に写る。増坂氏は時代の流れで変わってゆく景色を残す仕事として長年山口川をテーマに描いておりそれら一連の作品を、平成5年、宮古市芸術文化協会の40周年を記念し同会が水彩画集『山口川を描く』としてまとめた。その中の一部の作品は新装された山口公民館に寄贈されている。増坂氏は「現場を写すだけでは絵にならない。モチーフを自分の目でとらえ、線、形、色におきかえ新たな感動を生み出すのがスケッチだ」と語る。画集は山口川上流の蜂ヶ沢から、築地で閉伊川と合流するまでを36の作品で綴っている。
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== '''黒森神社と関係する中世の山口舘''' ==
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 中世以前からの歴史があると考えられている黒森神社が中腹に鎮座する黒森山(310m)の南西側の尾根に、階段状に築かれていたのが山口舘だ。この舘を築いたのは中世の時代山口周辺の地頭であったとされる小笠原氏だ。これについて大正4年(1915)に山口尋常小学校校長だった鈴木忠二郎は自身の著書で「小笠原氏は建久の頃、根城に築城した閉伊氏と関係があり、慶長年間(安土桃山~江戸初期)には宮古代官所の支配となり274石の石高を上げた」と書き残している。この小笠原氏の流れをくむのが山口の小笠原家で屋号を・井戸頭としている。小笠原家は山口舘を後ろに背負う形で存続し藩政時代には山口村の肝いりをしていた。舘は山の尾根を開削して築いたと考えられ最下部と最上部の主郭までは50mほどの落差があり、その間に数ヶ所の副郭部が階段状に築かれていた。
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 山口舘の南北にはかつて黒森神社と密接な関係があった安泰寺と赤竜寺があった。安泰寺は黒森山拝道の入口に、赤竜寺は晩年黒森山参拝の宿坊として機能していたと考えられている。両寺とも現在は廃寺となり寺跡には民家が建ち並んでいる。
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 『千徳城興廃実記』によると桜庭氏の命で千徳城を攻める際に小笠原氏も参戦しているとされるが、年代や周辺豪族の血縁関係や利害関係については決定的な証拠や系図がないため小笠原氏自身がどのような立場で南部氏の支配となったかは不明だ。
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== '''山口舘から出土した古い密教法具''' ==
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 平成6~16年まで行われた山口舘遺跡調査において、平成10年、錫杖、鐘鈴、三鈷鐃(さんこにょう)など密教法具といわれる鉄製の祭器が出土した。これらは竪穴住居が使われなくなった10世紀頃の住居跡からまとまって発見された。しかし、遺物の様式や形状が極めて古くこれら祭器は10世紀以前のもので、それまで長い間使われてきた祭器が10世紀頃に竪穴住居跡に廃棄されたのではないかと考えられている。
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 錫杖、鐘鈴、三鈷鐃の製作年代は1300ほど前の時代とされ、10世紀以前のこの地に黒森山を中心とした密教が流布していた可能性もあり、同時にこれらが当時、宮古周辺から昆布を集めて朝廷に献上したという須賀君古麻比留(すかのきみこまひる)と関係するのではないかとも考えられている。
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== '''『続日本紀』にある閇村とは宮古ではないのか。須賀君古麻比留と山口舘''' ==
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 『続日本紀(しょくにほんぎ)』は平安時代初期に日本を統治していた朝廷が編纂した勅撰史書であり『日本書紀』に続く公の文書とされ菅野真道らの手により延暦16年(797)に完成した。時代的には文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱い全40巻からなる。この歴史書に霊亀元年(715)遠く陸奥の国からはるばる朝廷に献上する昆布を持参する人物の名がある。その名を須賀君古麻比留(すかのきみこまひる)とし、毎年集荷し荷を運ぶが難儀であるから、古麻比留のいる土地に朝廷の許可を得て閇村(へむら・へいむら)を興し今後も朝廷のために働きたい…。という嘆願が掲載され、これが受諾されたという記述がある。古麻比留の言う閇村がもし閉伊村の前身でありひいては宮古の前身であるなら、鎌倉時代の閉伊氏などよりもっと以前の奈良時代にすでに宮古の人物が朝廷と交易によって密接な関係にあったことになる。しかしながら、現時点では閇村、須賀君古麻比留に関しての資料はなく場所や居館の特定ができないのが現状だ。
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 奈良時代、須賀君古麻比留による嘆願が『続日本紀』に掲載されてから約1300年になろうとしている。黒森神社や山口舘跡の密教法具、長根遺蹟の和同開珎、錫製品などが須賀君古麻比留に関係すると推測する宮古の歴史家も多い。
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== '''山口舘から出土した茶臼や陶磁器''' ==
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 山口舘跡からは豊富な陶磁器片が出土している。このことから舘は15~16世紀頃に築かれたものであると考えられる。発見された陶磁器片は古染付などの呉須を使って模様を描いたものや、薄緑色に焼き上がった青磁なども多く見つかっている。これらは戦国時代頃に中国から輸入されたもので当時は普段の飲食などには使用しない高級陶磁器だったと思われる。また、山口舘跡からはお茶の葉を臼で挽いて抹茶を作るための道具である茶臼の持ち手部分も出土している。茶臼は鎌倉時代に中国から伝来し、お茶の他に穀物を挽く石臼道具へと変化し日本の食文化にも大きく影響する。山口舘があった時代、宮古でも大陸から持ち込まれた陶磁器で抹茶を飲む茶の湯文化があったのではないかと考えられる。
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== '''関連事項''' ==
 
== '''関連事項''' ==
 
*[[宮古市]]
 
*[[宮古市]]

2013年2月20日 (水) 10:42時点における版

目次

山口川沿いに拓けた、宮古町と最も関係の深い農村

山口村は東を崎山村、西を茂市村、刈屋村、南を千徳村宮古町に、北は田老村、有芸村に接している。面積は5074方里、戸数313、人口男1280、女1119、枝村として近内、田代がある。(大正11年)
山口村の地名の由来は黒森神社及び黒森山へ登る登り口の意味があると伝えられる。鎌倉時代初期、根城に築城し当地を支配したという閉伊頼基の分家にあたる小笠原某氏の所領だったとされるが、戦国末期に南部氏が閉伊を統一してからは南部氏の所領になり宮古代官所の支配下となったまま明治維新に至る。田代は中世の時代、田代安芸という豪族が舘を築き支配しており、近内も同時代千徳氏の一族であったとされる近内某氏が支配していたため、両地区ともそれら豪族の名がそのまま地区名になったと考えられる。

地名の起こりは黒森山の入口

 宮古市街地の西方から北西に隣接する山口地区。昭和16年(1941)に宮古町・磯鶏村・千徳村などと合併して宮古市となったが、それ以前は山口村に属していた。  旧山口村は山口と田代・近内から成っていた。田代・近内は明治22年(1889)の町村制実施とともに合併して山口村になったもので、それ以前は独立した村だった。  山口の地名は、明治以前は黒森権現社と呼ばれていた、今の黒森神社が鎮座する黒森山の「山の入り口」からつけられたものである。

一石様にあった笠間の舘

 山口はもともと山口と笠間という二つの集落からなっていた。山口は山の入り口であった周辺集落で、それに対し笠間は、閉伊川北側の河口一帯を指した名称で、集落の中心は現在の舘合町や鴨崎町あたりにあった。  笠間は閉伊川河口での交通の要所であり、正応元年(1288)に閉伊三郎佐衛門尉光員が庶子余一員連に笠間の地を与えたと記録にある。しかし、慶長16年(1611)の大津波によって集落が全滅した。これにより笠間の名前は消えたが、その跡には、永和2年(1376)建立の「一石一字」とよばれる経塚の碑が建っていて、僅かに当時に名残りをとどめている。

山口の旧家・川原田家と小笠原家

 山口の集落がいつ頃出来たかははっきりしないが、今ある山口の家の中で、最も歴史が古いものは川原田家か小笠原家だと言われている。  川原田家は、代々黒森神社の別当をしていた家であり、建久元年(1190)の棟札に「別当、川原田右京助道」の名があり、これが川原田家の初代ということである。  小笠原家はもともと「山口殿」と呼ばれて山口を治めていた家の系統であり、屋号「井戸頭」の小笠原家には建武元年(1334)の銘が入った鉄鉢が保存されている。  また、応安3年(1370)の棟札に「小笠原太郎三郎」の名前が見える。これらのことから、遅くとも鎌倉時代末にはある程度の集落が出来上がったと想像される。

増坂勲氏の描く山口風景

泉町在住の画家・増坂勲氏は山口川を主体とした山口風景の作品を描いている。絵は水彩で独特のタッチで舘合の山口橋から黒森山に向かっての景色が描かれ、いつも通り慣れた風景なのに新鮮な構図として目に写る。増坂氏は時代の流れで変わってゆく景色を残す仕事として長年山口川をテーマに描いておりそれら一連の作品を、平成5年、宮古市芸術文化協会の40周年を記念し同会が水彩画集『山口川を描く』としてまとめた。その中の一部の作品は新装された山口公民館に寄贈されている。増坂氏は「現場を写すだけでは絵にならない。モチーフを自分の目でとらえ、線、形、色におきかえ新たな感動を生み出すのがスケッチだ」と語る。画集は山口川上流の蜂ヶ沢から、築地で閉伊川と合流するまでを36の作品で綴っている。


黒森神社と関係する中世の山口舘

 中世以前からの歴史があると考えられている黒森神社が中腹に鎮座する黒森山(310m)の南西側の尾根に、階段状に築かれていたのが山口舘だ。この舘を築いたのは中世の時代山口周辺の地頭であったとされる小笠原氏だ。これについて大正4年(1915)に山口尋常小学校校長だった鈴木忠二郎は自身の著書で「小笠原氏は建久の頃、根城に築城した閉伊氏と関係があり、慶長年間(安土桃山~江戸初期)には宮古代官所の支配となり274石の石高を上げた」と書き残している。この小笠原氏の流れをくむのが山口の小笠原家で屋号を・井戸頭としている。小笠原家は山口舘を後ろに背負う形で存続し藩政時代には山口村の肝いりをしていた。舘は山の尾根を開削して築いたと考えられ最下部と最上部の主郭までは50mほどの落差があり、その間に数ヶ所の副郭部が階段状に築かれていた。  山口舘の南北にはかつて黒森神社と密接な関係があった安泰寺と赤竜寺があった。安泰寺は黒森山拝道の入口に、赤竜寺は晩年黒森山参拝の宿坊として機能していたと考えられている。両寺とも現在は廃寺となり寺跡には民家が建ち並んでいる。  『千徳城興廃実記』によると桜庭氏の命で千徳城を攻める際に小笠原氏も参戦しているとされるが、年代や周辺豪族の血縁関係や利害関係については決定的な証拠や系図がないため小笠原氏自身がどのような立場で南部氏の支配となったかは不明だ。

山口舘から出土した古い密教法具

 平成6~16年まで行われた山口舘遺跡調査において、平成10年、錫杖、鐘鈴、三鈷鐃(さんこにょう)など密教法具といわれる鉄製の祭器が出土した。これらは竪穴住居が使われなくなった10世紀頃の住居跡からまとまって発見された。しかし、遺物の様式や形状が極めて古くこれら祭器は10世紀以前のもので、それまで長い間使われてきた祭器が10世紀頃に竪穴住居跡に廃棄されたのではないかと考えられている。  錫杖、鐘鈴、三鈷鐃の製作年代は1300ほど前の時代とされ、10世紀以前のこの地に黒森山を中心とした密教が流布していた可能性もあり、同時にこれらが当時、宮古周辺から昆布を集めて朝廷に献上したという須賀君古麻比留(すかのきみこまひる)と関係するのではないかとも考えられている。

『続日本紀』にある閇村とは宮古ではないのか。須賀君古麻比留と山口舘

 『続日本紀(しょくにほんぎ)』は平安時代初期に日本を統治していた朝廷が編纂した勅撰史書であり『日本書紀』に続く公の文書とされ菅野真道らの手により延暦16年(797)に完成した。時代的には文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱い全40巻からなる。この歴史書に霊亀元年(715)遠く陸奥の国からはるばる朝廷に献上する昆布を持参する人物の名がある。その名を須賀君古麻比留(すかのきみこまひる)とし、毎年集荷し荷を運ぶが難儀であるから、古麻比留のいる土地に朝廷の許可を得て閇村(へむら・へいむら)を興し今後も朝廷のために働きたい…。という嘆願が掲載され、これが受諾されたという記述がある。古麻比留の言う閇村がもし閉伊村の前身でありひいては宮古の前身であるなら、鎌倉時代の閉伊氏などよりもっと以前の奈良時代にすでに宮古の人物が朝廷と交易によって密接な関係にあったことになる。しかしながら、現時点では閇村、須賀君古麻比留に関しての資料はなく場所や居館の特定ができないのが現状だ。  奈良時代、須賀君古麻比留による嘆願が『続日本紀』に掲載されてから約1300年になろうとしている。黒森神社や山口舘跡の密教法具、長根遺蹟の和同開珎、錫製品などが須賀君古麻比留に関係すると推測する宮古の歴史家も多い。

山口舘から出土した茶臼や陶磁器

 山口舘跡からは豊富な陶磁器片が出土している。このことから舘は15~16世紀頃に築かれたものであると考えられる。発見された陶磁器片は古染付などの呉須を使って模様を描いたものや、薄緑色に焼き上がった青磁なども多く見つかっている。これらは戦国時代頃に中国から輸入されたもので当時は普段の飲食などには使用しない高級陶磁器だったと思われる。また、山口舘跡からはお茶の葉を臼で挽いて抹茶を作るための道具である茶臼の持ち手部分も出土している。茶臼は鎌倉時代に中国から伝来し、お茶の他に穀物を挽く石臼道具へと変化し日本の食文化にも大きく影響する。山口舘があった時代、宮古でも大陸から持ち込まれた陶磁器で抹茶を飲む茶の湯文化があったのではないかと考えられる。

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