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伊12潜とパミール号

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目次

本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず安全なる航海を祈る

太平洋戦時中、大海の真っ只中で、敵国の帆船・パミール号と日本の潜水艦とが出会った。戦時中、いかなる船であろうとも敵国であれば攻撃の対象になるのは当然である。この時の帆船は潜水艦の攻撃を受け撃沈を覚悟した。しかし潜水艦は次の信号を発して海中へと消えた。「本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず、安全なる航海を祈る」と。
その潜水艦は伊号第12、艦長は宮古出身の工藤兼男大佐だった。戦後17年、この美談が雑誌に掲載され人から人へと伝えられひとつの物語が生まれた。しかし、伊12とパミール号の出会いに関する確かな資料はない。伊12は太平洋で消息を絶ち、二度と日本には帰ってこなかった。

伊号第12潜水艦・米西海岸に向け出撃

郷土出身潜水艦戦没者の記録を綴った『海に生まれ海に死す』(齊藤太一氏著)によると、太平洋戦時中、伊号第12潜水艦がアメリカ西海岸に向けて瀬戸内海西部を出撃したのは昭和19年10月4日であった。乗組員は117人。艦長は宮古市鍬ヶ崎の出身、工藤兼男大佐、同じく宮古山口出身の川原田良一兵曹長をはじめ、田野畑村出身の下村孝太郎兵曹長ら郷土出身者も数名乗艦していた。
伊12は、連合艦隊から「先遺部隊指揮官(第6艦隊)は伊12をして10月上旬出撃、約2ヵ月間の期間をもって米本土西岸、ハワイ方面の敵海上交通破壊戦に従事せしむべし」の命令を受けた。出撃した伊12潜は、関門海峡、日本海を経て、機雷回避並びに後天視界不良のため函館沖に仮泊、翌日出発し、一路米西岸へと向かった。12月19日、第6艦隊は伊12潜に帰投を命じたが、同潜は出撃後連絡がなく、その行動および戦果については、米西岸防御指揮官の連合国軍艦船に対する警告電、あるいは敵信情報によって推定するしかなかった。

  • 10月30日頃
    • 北緯27度、西経142度にて輸送船2隻撃沈。
  • 12月9日
    • 推定位置、南緯8度、西経175度。
  • 12月下旬
    • 中部太平洋にて輸送船、タンカー各1撃沈。
  • ホノルル放送では
  • 1月2日午後8時30分
    • 北緯7度19分、東経179度にて潜水艦の攻撃を受ける。
  • 1月4日午後1時56分
    • 北緯16度14分、東経179度にて潜望鏡発見。
  • 1月5日午前4時35分
    • 北緯14度10分、東経171度2分にて浮上潜水艦を発見。


これらの情報をもとに日本海軍は、昭和20年1月5日、北緯14度、東経171度付近で発見され、その後消息不明となり未帰還となったことから、1月5日以降消息不明、1月31日中部太平洋において伊12を沈没と認定した。「太平洋戦争沈没艦船大鑑」には、1月31日、北緯14度0分、西経171度0分、米空母アンチオの飛行機によって沈没とある。しかし、戦後のアメリカ海軍調査によると10月30日、米輸送船ジョン・A・ジョンソン(7、176トン)を北緯29度55分、西経141度25分(ハワイ北東海面)において撃沈の戦果をあげた伊12潜は、11月13日午後2時、ハワイ発米西岸向け6隻の船団を護衛中の護衛艦ロックフォード、及び敷設艦アーデントの攻撃を受けて沈没している。
交戦の場が伊12潜の作戦海域で、他に行動中の日本潜水艦はなかったことから、断定されている。

帆船パミール号

帆船パミール号は、第一次世界大戦の1905(明治38)年、ドイツの船会社F・ライスツ社の注文でハンブルグで建造された。鋼製4本マストのバーク型帆船で総トン数3103トン、主に硝石運搬のため、南米大陸の南端ケープホーンを回航する数少ない帆船のひとつだった。
その後、マリエハムのグスタフ・エリクソン船長に売却され、数回オーストラリアへ航海したが第二次大戦の勃発で、ニュージーランドのウェリントンに入港した際に抑留された。主にニュージーランドと北米西岸の間を戦時物資輸送船として使用されていた。太平洋海域で同船が、日本の大型潜水艦に撃沈されそうになったエピソードが生まれたのは、この期間中である。
後、1950(昭和25)年、ベルギーのアントワープのドッグに放棄されているのを発見した西ドイツ政府は、それを購入し、補助エンジンを取り付け船会社共同利用による、船員訓練のための練習船として改造、使用していた。

美しき出会いはあったのか

伊12潜が、米護衛艦ロックフォードによって撃沈されたのは前述したように11月13日、北緯32度2分西経139度35分の位置である。
一方、パミール号の航海日誌には潜水艦との出会によって、船内が大混乱となった様子も記録されている。その日時、場所は11月12日、午後12時20分、北緯24度31分、西経146度47分である。
両者は確かにハワイ北東上の位置にあるが、1日の距離としては余りにも離れすぎているという。一日で到達するためにはかなりのスピードが必要されるが、伊12潜の最大速力では不可能だという。しかし、どちらかの潜水艦が伊12潜であることは間違いない。
しかし、付近にはアメリカの潜水艦スポットがいたことも見逃せない。味方同士であれば攻撃されることはない。その航海日誌には11月12日、「午後12時20分、右25度方向に3本マストのスクーナー発見」とある。3本と4本の違いはあるが、互いの確認した時間関係に誤差はない。果たしてこれは何を物語るのだろうか。

帆船ロマンは平和と不戦の誓い

敵か味方か分からない潜水艦と出会ったパミール号、撃沈を覚悟しながらも潜水艦は何事もなく立ち去ってしまった安堵感から、もしこれが敵国だとしたら何と心優しい立派な行動だろうかと感謝し、これを伝え聞いた人々によって美談に展開していった。
平成4年10月8日、この伊12潜の工藤艦長の行為に対し「艦長たちの崇高な人間愛を後世に伝えたい」と宮古市民有志が黒森神社境内に鎮魂の碑を建立するなど、帆船ロマンは定着していった。
しかし、検証すれば日米の資料にはあいまいさや矛盾点も見つかるが、手掛かりを知る伊12潜は、太平洋の海底の中に静かに眠ったままである。戦後60年、しかし、このことが真実かどうかよりも、日本人が忘れていた情誼の心を、こうした悲惨な戦争を題材に教えているのかも知れない。このことがさらに世界が不戦と平和を誓うエピソードとして語り継がれるのならパミール号、伊12潜も本望であろう。

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