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駒井常爾

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  • こまいじょうに【分類・歌人】
  • 江戸~昭和:寛保2年~文化11年(1742~1814)

神歌碑を建立した駒井常爾とその周辺

『横山八幡宮記』で神歌である和歌が刻まれた「横山八幡宮舊祠処」という自筆の石碑を建立し、宮古の儒学者として紹介している駒井常爾(じょうに)という人物は、宮古で造り酒屋、質屋を営んでいた近江商人で晩年は書家として名を残した人だ。しかし常爾が営んでいたとされる店の屋号や場所などは特定されておらず不明な点が多い。
駒井常爾という人は寛保2年(1742)京都に生まれ、幼名は金蔵、あるいは治右衛門(はるうえもん)と名乗ったという。近江商人であり滋賀県高島市安曇(あど)川町北船木の駒井家の出とされる。明和6年(1766)父が没し、常爾は24歳で同郷の先輩が商いで根を下ろしていた奥州の宮古へ下ることになる。
常爾は鍬ヶ崎で商売をしていた近江商人・伊香権兵衛(近権)を頼って宮古に移りその後、酒造、質屋などの商いを営む。 家業が軌道にのると商売は使用人にまかせ自らは書の道に励んだという。晩年は故郷である京都へ戻り文化11年(1814)に73歳で没したと伝えられ、大正3年(1914)には近江の駒井家の実家にて百回忌が営まれたという。常爾の造り酒屋は明治まで続いたとされるが詳しい記録は残っていない。


横山八幡宮の手水石と駒井常爾

横山八幡宮社務所横にある巨大な手水石は文化5年(1808)古館卯右衛門(うええもん)という人が黒田の奥から3年がかりで運び奉納したものと伝えられている。その後、手水石は明治39年(1906)に石の加工を終え現在の場所に据え付けられたという。手水石に刻まれた碑文は次の通り。

文化五年自(より)七年亘(わたる)宮古村外十六ヶ村約
壱万人力以(もって)黒田山奥
自(より)該石(がいせき・この石を)社前奉運(社前に運び奉る)
  主催 古館卯右衛門
   外 各村有志

この他に明治39年の最終加工に伴う主催者、氏子代表菊池長右エ門を筆頭に堀田熊次郎、宇都宮栄太郎、横山金兵衛の連名と周辺各村の名前が刻まれている。
『横山八幡宮記』によれば、この手水石の銘文は書家・駒井常爾の書としている。常爾は文化11年(1814)に没しているから銘文は常爾67歳の時の筆ということになる。また、この頃に常爾が宮古にいたのか、京都で遊学していたのか、あるいは奉書のち、没後に手水石に銘文を刻んだのかは記録されていない。

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