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神歌碑

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和歌が刻まれた建立年代のない石碑

駒井常爾が自筆建立したとされる横山八幡宮神歌碑は現在の横山八幡宮境内御輿蔵より一段下がった金比羅神社横にあり、付近には小祠が並ぶ。この碑は横山八幡宮社殿が現在の場所付近へ遷宮した際に、旧社跡として後世に伝え残すため建立されたと考えられる。石碑は台座のある巨大なもので高さは約2メートルほどだ。碑文は右に横山八幡宮舊祠処、上部中央に神歌とあり、その下に4行の草書体で和歌が刻まれている(別記参照)。

 山畠尓作久り
 あらし乃ゑのこ草
 阿は能なる止者
 堂れかいふら無

これは変体仮名で表現された和歌で、同音文字が重複した場所を別の文字に置き換えている。例えばこの歌の中では「の」という文字を通常の平仮名の「の」「乃」「能」と3パターンに使い分けている。ことがわかる。加えて常爾の筆が達筆なため読み下しは難解で、変体仮名と崩し字の知識が必要になる。
この和歌は高橋子績が『横山八幡宮縁記』の中で神歌として紹介したものだが、常爾は巧みに文字を使い「阿波の鳴門は」ではなく「阿は能なる止者」と置き換えている。

横山八幡宮に伝わる神歌の源流を探す

高橋子績による『横山八幡宮縁記』によれば平安時代の寛弘年間(1004~1011)に阿波の鳴門の異常を鎮めたという横山八幡宮神官の神歌が伝えられている。この説が通説として宮古の地名の起こりとして明治、大正から戦後の書籍で語られ、近年、宮古市から刊行されたガイドブック『知る知る宮古』にも同等の内容で掲載されている。
しかし、この和歌の源流は鎌倉後期から室町時代の武将・今川貞世(いまがわさだよ・1326~1420?)が晩年に執筆した歌集『言塵集(ごんじんしゅう)』に掲載があり平安時代に詠まれたものではない。『言塵集』はその時代に著名だったあるいは流布していた和歌を貞世が採取しテーマ別に分類掲載したもので、言ってみれば和歌作りのネタ本的ともみえる冊子だ。その中の植物を扱った分類に「ゑのこ草」として次のような和歌が掲載されている。

 ゑのこ草
 種はをのれが有物を
 粟のなるとは
 誰かいひけん

ゑのこ草はイネ科の一年草エノコグサのことで、別名はエノコログサ、またはネコジャラシとも呼ばれる日本各地で普通に見られる高さ30~80センチほどの雑草だ。穂先は粟をミニチュア化したような緑色の小さな穂に密生した種子をつける。これを踏まえてこの歌の大まかな意味を考察すると「ゑのこ草に種はあるけれど、これに粟がなる(実る)とは誰が言ったか…」という意味になると考えられる。
和歌のネタ本でもある『言塵集』にあるこの歌の「ゑのこ草」「粟のなると」「誰かいいけん」などのプロットが多少は改ざんされているものの、高橋子績は『横山八幡宮縁記』を執筆する際、社格を上げる目的で託宣で得た神歌として組み込み、「粟」を「阿波」、「なると」を「鳴門」に文字変換してまったく別の意味をもたせるよう工夫した可能性が見えてくる。
この神歌による伝承に対して日本民俗学の先駆者・柳田国男はその著書『定本柳田国男全集第8巻』の「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋」の項、「横山の禰宜」でゑのこ草の神歌にまつわる伝承で次のように触れている。

この記録は延享3年(1746)に土地の人が京都に持参し社格昇進の運動をした登録材料であった、それから15年後の宝暦10年(1760)江戸の学者・井上蘭臺がこれに基づいて『重修横山八幡宮記』を書き、更に50年後には駒井常爾という人が「山畑に…」の神歌を石に刻し、記念碑を建てた(旅と伝説2巻2号)。即ち由来は年久しいけれど根元は単なる歌の暗記に過ぎない

また、この項で柳田は横山の禰宜の先祖が猿丸太夫の子孫だったという言い伝えにも触れ、全国に散らばる小野小町に関係する小野氏、和泉式部の伝説も女性による「賢しい言葉」すなわち「歌」を中心とした流れがあることを示唆している。

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地図

https://goo.gl/maps/NIdQW

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