秀全堂
即身成仏した若き僧の苦行を今に伝える
元文元年(1736)春、当時、船越村の枝村であった大浦村で観音堂という庵を結んでいた浄慶(じょうけい)という宗教者の元に、元禄15年(1702)に相模小田原に生まれた智芳秀全という旅の僧が訪ねてきた。秀全は正徳5年(1715)15歳で仏門に入り、三年の修行後、諸国の名山旧跡を廻りながら東奥に入ったのだった。大浦には荒川村の白糸の滝、金沢村を経てこの地に庵を結ぶ浄慶を訪ねたのであった。
秀全は大浦から船越半島の主峰・霞露ヶ岳(かろがだけ504m)を経て東側突端にあたる、大網(おおあみ)の岩屋を庵と定め座禅三昧に入り、米粒を断ち松の葉を食し瞑想する生活を続けたという。ある時、宮古郷門村(岩泉・門と思われる)に不昧庵(ふまいあん)という草庵を結んでいた悟庵(ごあん)という人物を訪ね三日間対面し大浦に戻った。大浦に戻った秀全は浄慶の元を訪ね「法華大乗妙典一石一字」を血書することを語る。秀全は里人が持ち寄った小石に自らの手足の指を刺し、滴る血に酢を加え一石に一字ずつ血書の筆を振るった。また、夜は自らの掌を皿にし油を入れ指の間に灯芯をはさみそれを明かりとして血書を続けたという。
元文2年(1737)6月、秀全は大網の岩屋に里人が奉納した如意輪観音石像を安置、後、秀全は火定(自ら火に身をさらし成仏する)に入るため浄慶にその運命をゆだねた。浄慶は海蔵寺(船越)和尚、村の古老らに相談したが結論が出ずだれ一人として火を入れなかった。古老たちは相談のうえ大槌代官所に告げ処置を仰いだが、そこでも保留措置とされてしまう。当時、この地方では六十六部衆と称する旅の宗教者たちが入定を偽り、世を欺き多額の金銭をせしめるという事件が頻発しており、代官所では保留するだけではなく秀全自身の追放の沙汰を出したという。
火定をあきらめた秀全は、入定の地を土中と定め穴を掘りそこに柱を立て屋根を葺いて土中に座禅しながら官許が出るのを待ち続けたという。浄慶は秀全の確固たる意志を重んじ、周辺の寺院の和尚らの協力を得て代官所に嘆願、呈して入定の官許が降りる運びとなったという。
入定に至るまで再び十指を刺し血書をしたためるなど想像を絶する苦行に入った秀全は元文3年(1738)27日間の苦行のにち、6月12日、享年37歳にして西方に旅立ったという。
壮絶な意志で仏の道を歩んだ秀全を偲び、入滅から17年後の宝暦5年(1755)、牧庵鞭牛は大網の岩屋を訪ね石碑を建立。碑には南無阿弥陀仏、左側面に六字之名号一万血書供養塔とあるという。
現在秀全が入滅した場所には秀全堂という小さな祠があり、今でも大浦の人々の信仰を集めている。なお大網の岩屋は船越半島先端に今もあると言われているが未確認である。
- 参考文献 『山田町史』