田代氏
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現在田代舘八幡神社は社を鞘堂に囲まれ舘跡を開墾した畑の端にあり、内部には二対の木製の権現様がある。別当は代々田代で山伏をしていたという中里地区の田代正雄さん。旧暦の八月八日に縁日を迎える。 | 現在田代舘八幡神社は社を鞘堂に囲まれ舘跡を開墾した畑の端にあり、内部には二対の木製の権現様がある。別当は代々田代で山伏をしていたという中里地区の田代正雄さん。旧暦の八月八日に縁日を迎える。 | ||
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2012年12月25日 (火) 16:40時点における最新版
[編集] 中世の時代田代を統治した豪族
室町から戦国時代にかけて田代を統治していたのは田代氏という地方豪族だった。田代氏は南北朝時代(1333~1392)には現在の吾妻地区にある田代舘八幡宮を中心にした峰に田代舘を築き、鎌倉時代には田代川流域の開発を行っていた。後に、舘主である田代安芸守義里は舘に舘神として八幡神社を勧請、舘の西に明白山久昌寺を建立している。また田代氏は桜庭氏との血縁もあり、戦国時代の土岐千徳氏、千徳氏の滅亡にも大きくかかわっている。
現在田代舘八幡神社は社を鞘堂に囲まれ舘跡を開墾した畑の端にあり、内部には二対の木製の権現様がある。別当は代々田代で山伏をしていたという中里地区の田代正雄さん。旧暦の八月八日に縁日を迎える。