久昌寺
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義経伝説と久昌寺
文治1年(1185)源義経が屋島の平氏を襲撃する時、約80隻の水軍を出して義経に協力した九州の豪族に臼杵次郎惟隆という人物がいたという。この弟に尾形惟義という人物がおり、平氏の没落後この人物が義経が九州の地頭になった時に協力することになり、共に大物浦を出帆したが暴風雨により船団は離散した。後に義経失脚に伴い義経の残党として臼杵氏、尾形氏も地下へ潜らざるをえなくなったという。義経を生涯かかって研究した宮古市出身の故佐々木勝三氏は著書『成吉思汗は源義経』の中で、浄土ヶ浜の臼杵山をも持ち山としていたという田代の臼杵氏の先祖が尾形氏の兄臼杵次郎惟隆ではないかと語っている。また、北行に伴い宮古を訪れた義経一行は北へ向かう都合上、田代へ立ち寄り里人と何らかの接触があったのではないかとしている。